今まで数多くの人々を魅了してきた篠山紀信(以下、篠山)。
実は1月4日に83年でその生涯に幕を閉じました。
生前はその明るくチャーミングなキャラクターから流行語大賞や「カメラ小僧」の愛称で親しまれていました。
プロカメラマンとして多くの芸能人を撮影し、つねに最前線で活躍し続けてきた篠山に憧れを抱いていた方も多いはずです。
今回は日本を代表する写真家の篠山の人生と今まで成し遂げてきた偉業について取り上げていこうと思います。
写真家:篠山紀信とは。
ここからは篠山の生涯について簡単に振り返ってみようと思います。
生い立ち
1940年12月3日に東京都新宿区北新宿に生まれ東京都新宿区にある円照寺というお寺の家系に生まれ育ちます。
新宿区立淀橋第四小学校を経て、私立芝中学校・高等学校に入学。高校時代まで生家の円照寺で過ごしました。
写真家を志すきっかけ
大学は特に写真が好きというわけではなかったようですが、一般大学の受験に失敗したため、衝動的に日本大学芸術学部写真学科に出願し入学してしまったそうです。
そこから写真家を志すようになり、日本大学に在学中も更に写真の腕を磨くために東京綜合写真専門学校にも並行して通っていたとのこと。
才能が開花し始めた青年期
東京綜合写真専門学校を2年で卒業した後、日本大学在学中の1961年に広告写真家協会展APA賞を受賞したそうです。
同年、広告制作会社ライトパブリシティに就職しました。
入社後も歌舞伎からヌードまで幅広いジャンルで活躍し、多くの人々を魅了してきました。
篠山の収めてきた功績の数々。
1966年に東京国立近代美術館の「現代写真の10人」展に最年少で参加をし、それがきっかけで徐々に注目を浴びるようになりました。
それから10年後の1975年に雑誌「GORO」の山口百恵特集で使っていた「激写」はその年の流行語になるなど、年々影響力を増していきました。
1976年にはベネチア・ビエンナーレ国際美術展の日本館に代表作家として選ばれ、国内のみならず、海外へも活躍の場を広げることとなります。
1978年に写真集「大激写 135人の女ともだち」がベストセラーになったのが端緒で、1980年には篠山をメインにした写真雑誌「写楽」も創刊されました。
同年にはジョン・レノンとオノ・ヨーコによる共作のアルバム「ダブル・ファンタジー」を担当することもありました。
篠山の死因は。老衰?
篠山の死因に関してはさまざまな噂を耳にしますが、実際はどうなのでしょうか?
多くのメディアを調べてみたところ主な死因は老衰とのことでした。
でも闘病生活などで苦痛を伴わず人生の終末を迎えることができたのではないかと思います。
篠山の妻は?
篠山の妻は小柳ルミ子・天地真理と共に新三人娘として活躍していた、歌手の南沙織(以下、南)とのことでした。
24歳には学業に専念するために
1971年にデビューし、同年6月に「17才」をリリースし、驚異の54万枚を記録するなどアイドルとしても活躍していました。
2人の馴れ初めは?
篠山と南の馴れ初めに関しては詳しく公表されていませんが、南が芸能界を引退した時にはもう交際が始まっていたとのことです。
まとめ
今回は篠山紀信さんについて取り上げました。
生前からチャーミングで気さくなキャラクターから数多くの人々から愛され続け、日本の写真界の巨匠として活躍されました。人生を深掘れば深掘るほど、その色を増し魅了されます。
亡くなった後でも篠山紀信さんの写真はさまざまな人々の目を引き付ける力を放っていくことでしょう。
この記事が更にアートや写真への興味を持っていただける機会になれば幸いです。