コラム記事

日本史と美術品:狩野永徳や黒田清輝などによる10つの歴史の転機を刻んだ作品例

日本史と美術

平安時代の始まり(794年)

「源氏物語絵巻」は、平安時代の文学作品である「源氏物語」を題材にした絵巻物です。物語の登場人物や場面が描かれ、当時の貴族文化や風俗が反映されています。

時代背景

平安時代は、794年に平安京(現在の京都)が都として建設され、平安朝が成立した時代です。この時代は約400年間続き、日本の歴史の中でも文化や芸術が栄えた時期として知られています。

強力な中央集権政治の成立は、平安時代の特徴的な要素の一つでしょう。平安京を中心として政治が展開されたほか、貴族社会が栄えました。貴族の中には、文学や音楽、絵画などの文化活動に情熱を注ぐ人々が多くいたため、平安時代文化の粋を楽しむ風潮が広まっていったのです。

また、平安時代は仏教文化が隆盛を極めた時代でもあります。各地に多くの寺院が建立されるとともに、仏教の教えが広まりました。また、貴族社会の間では陰陽道や風水などの今で言うスピリチュアル的な思想も流行したといいます。

一方で、平安時代は貴族社会の華やかさとは対照的に、地方では豪族や武士団が台頭し、乱世が生まれる兆しも見られました。これがその後の鎌倉時代へと続く動きの一端となっているのです。

住吉具慶「源氏物語絵巻」

住吉具慶「源氏物語絵巻」
引用:https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/503348

「源氏物語絵巻」は、紫式部によって書かれた日本最古の長編小説「源氏物語」を絵巻物として描いた作品であり、平安時代貴族たちの恋愛や人間関係を中心に描かれています。近世住吉家第二代の住吉具慶によって制作されました。住吉家は、中世以来の大和絵の伝統を継承して代々幕府の御用を勤めました。

内容は、この源氏物語の各章を絵画で表現したものであり、特に平安時代後期から鎌倉時代初期にかけて多く制作されました。物語の主要な場面や登場人物を描いた連作の絵画で構成された絵巻物の形式をとることで、物語の情景や登場人物の様子を視覚的に表現し、より身近に物語を楽しむことができるようになったのです。

鎌倉時代〜鎌倉幕府の成立 (1185年〜)

鎌倉時代の仏教彫刻は、その時代の芸術の一翼を担いました。南大門の金剛力士像や鎌倉大仏などが代表的な作品で、仏教の繁栄と武士社会の特色が反映されています

時代背景

鎌倉時代は、1185年に源頼朝が平氏を滅ぼし、鎌倉幕府を開いた時代です。これにより、日本の政治体制が変化し、武士団を中心とした新たな支配体制が樹立されました。

鎌倉時代は、幕府の武士による武力政治が始まったことがその特徴であり、この時代に武士団の台頭とともに地方豪族の勢力もさらに拡大しました。

また、鎌倉時代初期にはモンゴル帝国の侵攻(元寇)がありましたが、日本は天候などに恵まれたからか幸運にもこれを撃退したことで、国家の団結と武士の力が強調されたとされています。

こうした背景から、武士たちは仏教を信仰し、自らの守護神として仏像を崇拝したため、武士社会の成立とともに、仏教彫刻の需要が高まったと言われています。庶民にとっても鎌倉時代は戦乱などの社会的な不安定さがある中で、仏教は人々の心の拠り所となったのではないでしょうか。

鎌倉時代には、宗などの中国文化が伝来しており、仏教彫刻などにもその技術様式などがみられます。

運慶・快慶「金剛力士像」

「金剛力士像」
引用:世界の歴史マップ

「金剛力士像」は、鎌倉時代に当時を代表する仏師であった運慶・快慶によって建立された、現在の奈良県にある東大寺の南大門に安置されている、巨大な力士像としてよく知られています。

これらの力士像は、仏教の守護神である『金剛力士』を表しており、その堂々とした姿勢と迫力ある表情は、当時の武士団の勇士の姿を象徴しています。「金剛力士像」は、鎌倉時代の仏教彫刻の傑作として、その芸術性と宗教的意義で高く評価されています。

「鎌倉大仏」

鎌倉大仏
引用:https://travel.rakuten.co.jp/mytrip/howto/kamakura-daibutsu

鎌倉時代の仏教彫刻の代表的な作品の一つとして建長寺に安置されている鎌倉大仏は、鎌倉時代初期の1252年に建立された、高さ約11.4メートルの青銅製の大仏像です。

大仏は、仏教の教えや修行の象徴として建立され、当時の武士や庶民にとって信仰の対象となりました。また、立派な大仏の建立によって、鎌倉幕府のパワーを示したという象徴的な行為でもあったでしょう。

室町時代の芸術の繁栄 (14世紀後半〜16世紀)

室町時代は、1336年から1573年まで続いた時代であり、鎌倉幕府の滅亡後に成立した室町幕府が統治していました。この時代は、武士社会の崩壊や戦国時代への移行期にあたりますが、同時に文化や芸術が栄えた時代でもあります。

時代背景

室町時代は、日本の歴史の中でも文化と芸術の黄金期と言われています。鎌倉時代に比べて、戦国時代に向けて政治的な不安定さが増した時代ではありましたが、この時期には貴族文化や武士文化がさらに繁栄し、多くの文化人や芸術家が活躍していました。

室町幕府は、京都にある将軍の居城である『室町』を中心に政治を行い、その周辺には多くの文化人が集まりました。貴族や公家たちは、和歌や茶道、能楽や琴などの芸術や儀式を通じて文化的な交流を楽しみました。

また、室町時代の武士たちは、武芸の修行に励むとともに、茶道や書道、華道などの文化活動にも積極的に参加しました。特に、武士階級によって奨励された茶道は、室町時代に大きな発展を遂げ、茶の湯の流派が次々と生まれました。

このような貴族文化と武士文化の繁栄の中で、室町時代の芸術も大きな発展を遂げました。狩野派をはじめとする絵画の流派や茶道、能楽、建築などの芸術が栄え、日本の文化が豊かな多様性を見せる時代となりました。

狩野派は室町時代を代表する絵画の流派の一つで、足利幕府の御用絵師に取り立てられた正信(まさのぶ)に始まります。狩野派は、中国風の画風と日本風の表現を融合させ、風景や動植物、風俗などを幅広く描いた作品を制作しました。これらの作風は、室町時代の文化的雰囲気を象徴しています。

狩野派と対立した流派としては、狩野正信と同年代に登場した土佐光信の活躍により栄えた伝統的な絵画様式である『やまと絵』の流派である土佐派の他、円山派や雪舟派などが挙げられます。円山派は、中国風の画風や文化にこだわり、山水画や花鳥画を得意としました。雪舟派は、雪舟を祖とする絵画の流派で、中国・明で学んだ大胆な筆致や自然の表現に特徴がありました。多数の流派が競い合う中で、室町時代の芸術は多様化し、深化していったのです。

狩野正信「周茂叔愛蓮図」

「周茂叔愛蓮図」狩野正信
引用:https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/581333

狩野派の屏風絵は、室町時代の芸術の隆盛を象徴するものです。風景や動植物、風俗などを描いた作品が多く、当時の日本の風物を見事に表現しています。

狩野派2代目の狩野正信が描いた「周茂叔愛蓮図」は、周茂叔という中国北宋時代の儒学者が蓮をこよなく愛していたことをテーマにして描かれました。

中国で昔あった出来事をモチーフにした絵画は当時よく描かれたようです。すっきりと簡潔に美しく配置されたモチーフが印象的です。

雪舟「秋冬山水図」

雪舟「秋冬山水図」
引用:https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/533772

室町時代の禅僧画家・雪舟(せっしゅう)も、狩野派の画家たちと肩を並べた有名な画家です。「秋冬山水図」は、秋と冬の山や川などの自然を描いた作品で、雪舟は中国・明に留学して中国の絵画様式を取り入れたため、以後の山水画に大きな影響を与えました。

「秋景」「冬景」どちらも下の方から見ていくとその遠近感があることがわかり、位置関係が明確に描き分けられています。このような雪舟以前の山水画にはみられないような構成が特徴的です。

土佐光信「蛙草紙絵巻」

土佐光信「蛙草紙絵巻」
引用:https://nekoarena.blog.fc2.com/blog-entry-1601.html

土佐光信は、半世紀にわたり宮廷絵所預に在任し、やまと絵絵師の頂点に君臨した人物です。

「蛙草紙絵巻」は、貧しい男が長者の家の床下に閉じ込められていた蛙を助け、蛙の怨念のため病に伏していたその金持ちの家の娘の婿になり出世するお伽草子の絵巻です。

お伽草子を描いたものとしてはサイズが大きく、有権者による発注に応じて作成されたと考えられています。

戦国大名の興亡(15世紀後半〜16世紀末)

戦国時代は、武力による争いと同時に、文化や経済の発展も見られ、日本の歴史上重要な時代となりました。財力をつけた当時の大名たちが、お抱えの職人たちに作らせた芸術品などを見ても、そのスケールが更に拡大したことがわかります。

時代背景

室町時代後期になると、室町幕府の権威が衰退し、室町幕府内部での政治的な混乱が生じました。国内の各地で大名や武将が領土を巡って争い、いわゆる『戦国の世』が形成されていきました。土豪や国人領主が勢力を拡大し、地域ごとに勢力争いが激化しました。

戦国時代には、戦国大名や武将たちが国内外での貿易を活発化させ、経済的な発展を図りました。一方で、戦国大名たちは領土拡大や軍事力の強化のために多大な費用を投じ、財政難に陥ることもありました。経済的な競争が激化し、財力のある大名が他の大名を凌駕することも珍しくなく、その財の象徴とも言えるような豪華絢爛な文化も発展していきます。

また、戦国時代には、従来の貴族や武士階級に加えて、商人や農民が新たな勢力として台頭するなど、それまでの社会のヒエラルキーが揺らぎました。これらの新興勢力が大名や武将たちとの間で様々な利害関係を持ち、戦国大名の興亡に影響を与えました。

狩野永徳「唐獅子図屏風」

「唐獅子図屏風」
引用:https://dragon-tiger17.hatenablog.com/entry/2020/11/24/004443

「唐獅子図屏風」は、織田信長や豊臣秀吉によって取り立てられたことに気に入られて戦国時代・安土桃山時代に大活躍を果たす狩野永徳が手がけた作品です。永徳は幼い頃から画才を認められ、優れた英才教育を受けており、23歳の若さで「上杉家洛中洛外図屏風」という作品を完成させるなど優れた画力を発揮し、若くして狩野派の4代目として名声を博しました。

1582年(天正10年)に織田信長が京都の本能寺で討たれた際、岡山の備中高松城で毛利氏を攻めていた豊臣秀吉が明智光秀を打倒することを決意し、毛利氏との和睦の証として贈るために持参したとも言われているそうです。

岩間を闊歩する雌雄の堂々たる獅子の姿が力強い筆法で描かれており、その迫力や勇壮さが伝わってきます。

「唐獅子図屏風」の左隻は、後に狩野常信が右隻の図様にあわせて制作したものです。

安土桃山時代(16世紀後半)

安土桃山時代は、織田信長や豊臣秀吉などの戦国大名が勢力を拡大し、日本の統一を目指した華やかな時代です。

織田信長が堺を直轄地としたのち、その土地との繋がりをより強固にするために、政財界の中心人物で茶人でもあった今井宗久、津田宗及、千利休を茶頭(さじゅう・さどう:茶の湯を司る役職)として重用したことをきっかけに、茶の湯の文化が栄えました。

その中で利休茶碗などの茶道具が多く制作されたり、豪華な茶室が作られうなど、茶の湯の世界に華を添えました。

時代背景

安土桃山時代初期には、織田信長や豊臣秀吉などの戦国大名が勢力を拡大し、日本の統一を目指しました。特に、信長は尾張国(現在の愛知県)を拠点に勢力を伸ばし、京都を制圧しました。その後、秀吉が信長の後を継いで日本を統一します。

この時代は、さまざまな文化や芸術が繁栄しました。信長や秀吉の文化政策によって、大阪・堺の千利休が茶頭を務めるなどした背景から、茶道や茶室の文化が隆盛しました。当時、千利休の茶の湯は政治の道具としての性格を強くしていたため、急激に発展したとされています。

また秀吉の朝鮮出兵や朝鮮との通交、ポルトガルやスペインなどとの交易などが始まるなど、日本と外国との関係が深まった時代でもありました。

狩野内膳「南蛮屏風」

狩野内膳「南蛮屏風」
引用:https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/399808

スペイン、ポルトガルとの交易の様子を描いた南蛮屏風は16世紀末期から17世紀半ばを中心に制作され、90件以上が確認されています。特に、狩野内膳の「南蛮屏風」は、緻密な描写と鮮やかな色彩から南蛮屏風の代表的作品として広く知られています。内膳は摂津伊丹城主・荒木村重の家臣の子で、狩野松栄に仕えて画家となりました。後に豊臣家のお抱え絵師として活躍し、南蛮屏風など多くの作品を手がけました。

左隻には南蛮船が帆を広げ、異国の港を出港する様子が描かれています。色鮮やかな建物は中国風をベースにした、瑞雲や龍、宝珠が見られたり、ドーム状の建物も描かれています。

右隻には南蛮船が日本の港へ到着し、貿易品の荷揚げや上陸したカピタン一行、出迎えるイエズス会宣教師やフランシスコ会修道士、日本人信者たちが描かれています。南蛮寺では救世主像の掲げられた祭壇の前で儀式が執り行われています。象、アラビア馬、グレイハウンド種の洋犬など、南蛮渡来の珍獣なども多く描かれていることがわかります。

本阿弥光悦・俵屋宗達「鶴下絵三十六歌仙和歌巻」

「鶴下絵三十六歌仙和歌巻」
引用:https://www.kyohaku.go.jp/jp/collection/meihin/kinsei/item02/

京の都に住んでいた総合芸術家の本阿弥光悦は、書、陶芸、蒔絵、茶の湯などあらゆる技芸に精通していました。

「鶴下絵三十六歌仙和歌巻」は、俵屋宗達が絵を描いた巻紙の上に、本阿弥光悦が三十六歌仙の和歌をしたためた作品です。

多彩な本阿弥光悦は、異質なものを掛け合わせたり、融合させたりして、新しいものを生み出。光悦が持っていたこの特長は、日本美術の、ひいては日本文化の特質そのものと考えてもいい。その証左に、光悦や俵屋宗達の作品を嚆矢として、日本の美の典型ともいうべき「琳派」が江戸時代を通して確立されていき、その美意識は現在の私たちにもしかと共有されている。

江戸時代:鎖国政策の実施 (1633年)

江戸時代の鎖国政策は、戦国時代や安土桃山時代の混乱や外国勢力の活動による影響を受け、外国との接触を制限しようとする政策として実施されました。この時期に鎖国政策を反映した絵巻物が制作され、この時代の政治的状況を知る貴重な資料となっています。

時代背景

前の時代である戦国時代と安土桃山時代に、日本国内の戦国大名や武将たちが争って領土を奪い合い、その結果、国内の政治や経済が混乱しました。そうした混乱から脱却し、統一された政権が国内の秩序を回復しようとする動きも、江戸時代の鎖国政策の一因となったと考えられます。

江戸時代には、世界では、ポルトガルやスペイン、オランダ、イギリスなどのヨーロッパ列強が、アジアや太平洋地域での貿易や植民地拡大を目指して活動していました。日本はその中継地点として位置していたため、それまでの時代にはポルトガルなどの一部の国との貿易を制限しながら行っていたものの、外国勢力の介入や侵略に対する警戒感が高まっていきました。

鎖国政策は、幕末のペリー来航に始まる動乱期まで続くことになります。最終的には、アメリカやロシアなどの外国船が日本に来航し、日本よりもレベルの高い軍事力を見せつけながら外交交渉や貿易を求める要求を行いました。これに対し、江戸幕府は不平等条約を締結せざるを得ない状況となったため、鎖国政策が徐々に緩和されていったのです。

谷文晁「ファン・ロイエン筆花鳥図模写」

引用:https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/410665

「ファン・ロイエン筆花鳥図模写」は、江戸後期に活躍した絵師・谷文晁が西洋画を模して描いた作品です。江戸時代の当時の日本人にとっては、見たことのない写実表現だったことから話題を呼んだことでしょう。

原画の油彩画は、江戸幕府の第8代将軍・徳川吉宗がオランダ商館に注文して輸入されたそうです。作品の下の方に注目すると、果物や、それをついばむ鳥、蟻がよじ登る花なども描かれてあり、豪華な花束もやがて朽ち果てる運命にあるということを表現しています。本作品は、そういった人生の空しさの寓意『ヴァニタス』を主題とする、西洋では典型的な表現が用いられています。

現在は、神戸市立博物館に所蔵されています。

幕末の開国と文明開化 (19世紀後半)

幕末から明治初期にかけて、写真技術が日本にもたらされました。フェリス写真などは、開国時代の日本の姿を鮮明に記録しています。

時代背景

幕末の時代背景には、ペリー提督率いるアメリカの黒船が1853年(あるいは1854年)に来航し、日本に対して開国を求めたことが含まれます。この来航を受け、諸外国の軍事力を目の当たりにし、日本は不平等条約を締結せざるを得なくなり、1858年には日米修好通商条約をはじめとする外国勢力との不平等条約を結ぶこととなっていきます。これにより、外国勢力の圧力が強まったと共に、日本の国内情勢が不安定化しました。混乱の中で幕府への反発や外国勢力への対抗意識と結びついた尊王攘夷の思想が広がり、天皇を中心とした政治体制の回復を求める運動も盛んになりました。

同時に、幕末には長州藩、薩摩藩、土佐藩などの藩閥が台頭し、幕府に対する不満や抗議が高まりました。幕府は外圧に対処する能力が不足しており、その弱体化がますます顕著になっていました。また、幕末の特に長州、薩摩、土佐などの藩士や知識人の間では、西洋文明の導入や近代化の必要性が議論されることもあったと言います。これらの人々は積極的な開国派でした。

約260年間続いた江戸幕府の権威が揺るぎ、思いを共にしない藩同士が争ったり、外国人襲撃事件が起こるなどした結果、日本は開国への道を進んでいきます。

外国との交流が始まったことで、諸外国からの知識や技術の導入が進み、西洋の文明や技術の導入が始まっていきました。

新撰組・土方歳三の愛刀「和泉守兼定」

新撰組・土方歳三の愛刀「和泉守兼定」
引用:https://www.touken-world.jp/search-noted-sword/unselected/56537/

幕末にに江戸幕府の徴募により組織された浪士隊として結成され、特に尊攘派志士の弾圧活動に従事したとして知られる「新撰組」の副長を担ったことで有名な土方歳三は、名刀の一つとして知られう「和泉守兼定」を2振所有していたとされ、そのうち池田屋事件で使用したとされるものは、2尺8寸であったとされ、現存していません。

もう1振の和泉守兼定は、12代目兼定の作、2尺3寸1分6厘で、箱館戦争の時に佐藤彦五郎に送ったものでが、現在も土方歳三資料館にて所蔵されています。

歌川芳員「頼光山中ニ妖恠見る図」

歌川芳員「頼光山中ニ妖恠見る図」
引用:https://www.pinterest.ca/pin/278801033169591797/

嘉永2~5年(1849~52)に歌川芳員が描いた「頼光山中ニ妖恠見る図」は、当時よく描かれた「横浜浮世絵」の一つです。

横浜浮世絵とは、開港した横浜の西洋風俗などを題材に制作された作品です。当時の横浜の最新の様子を伝えるものとして、江戸の人々の注目を集めたと言います。

歌川芳員と五雲亭貞秀は、横浜浮世絵を代表する画家として知られます。

この時代の作品は、混沌とした世の中を物語るような劇的で力強い描写、迫真的な表現などが特徴的です。

明治維新と西洋文化の導入(1868年)

江戸幕府の崩壊と共に、1868年に明治新政府が設立されます。明治維新後、西洋の絵画技法や様式が取り入れられるなどして、西洋風の風景や人物を描いた作品が多く制作されるようになりました。

時代背景

1868年に、長州、薩摩、土佐などの藩閥が中心となって、京都で政変を起こしました。これにより幕府は崩壊し、明治政府が樹立されました。

明治政府は、西洋文明の導入や近代化を推進しながら政治・経済の改革を行い、封建制度は廃止され、地租改正や学制制定などが進められました。

日本は明治維新後、急速に近代化が進みました。工業や通商、教育などのあらゆる分野での改革が行われ、日本はこの時期に近代国家へと変貌していったのです。

黒田清輝「裸体婦人像」

黒田清輝「裸体婦人像」
引用元:wikipedia

近代日本洋画を代表する画家・黒田清輝が1901年に制作した「裸体婦人像」は、毛皮の上に座る外国人女性が描かれており、体の肉感などの立体感や光を描いたことによる絶妙な陰影、複数の色を複雑に塗り重ねたことで描いた写実的な肌の色合いなど、これまでの日本画に見られない、西洋から学んだ技法やスタイルが特徴的です。

本作は、同年に開催された「第6回白馬会」に出品された際、物議を醸します。風俗壊乱を理由として警察の指導が入る事態となり、最終的に下半身を布で覆ったままでの展示となったそうです。

第二次世界大戦の終結と戦後復興(1945年)

戦後の日本では、被爆や戦争の悲惨さを描いた作品が多く制作されました。原爆の図などは、その象徴的な作品の一つです。

時代背景

第二次世界大戦において、日本は徐々に不利になっていく中で、都市への空襲や食糧不足など、国民生活はますます困難になりました。資源不足や経済的な打撃も大きく受けていました。対するアメリカは、過去の他国の戦争への武器の輸出などから経済力や産業力、兵器技術において圧倒的に優位だったため、日本に対する空襲や海上封鎖、そして原子爆弾による広島・長崎への投下など日本への圧力を強めていきました。

1945年のポツダム宣言を受けて、日本は降伏の条件を受け入れるべきかどうかをめぐって内外で議論が行われ、1945年の無条件降伏文書署名によって、第二次世界大戦は終結しました。

戦時中には多くの戦争画が描かれました。これらはいわゆる『プロパガンダ』であるとして、第二次世界大戦後にアメリカ軍により没収されて管理されていた150点の絵画が、1970年に日本政府に、返却ではなく無期限貸与という条件の元で戻されました。

藤田嗣治「アッツ島玉砕」

藤田嗣治「アッツ島玉砕」
引用:http://www.erugo.jp/news/mjblog/2288

藤田嗣治は戦争中に多くプロパガンダの一環として描かれた戦争画を依頼された画家の中心人物です。「アッツ島玉砕」には、凄惨な戦時中の姿が描かれており、もはやプロパガンダとは思えないほど、戦争のリアルで悲惨な姿が描かれているように感じます。

描かれたアッツ島での敗北が日本軍にとって初の玉砕であり、当時このことは国民にも知らされていたといいます。

現代日本の経済成長と都市化(20世紀後半 – 21世紀)

経済成長と都市化が進む中で、都市風景や都市生活を描いた写真作品が多く制作されました。森山大道の都市風景写真などは、その代表的な作品の一つです。

時代背景

戦後、20世紀後半から21世紀にかけて、日本では経済成長と都市化が急速に進みました。高度経済成長期には、自動車産業や電子機器産業などの製造業が急速に発展し、労働者や人口は都市部に集中していきました。この経済成長と都市化の進展に伴って、都市の風景や生活が大きく変化したことから、これを反映した写真作品が多く制作されました。

例えば、森山大道の都市風景写真は、その代表的な作品の一つでしょう。森山は、街中で撮影した写真を通じて都市の喧騒や人々の日常生活を鋭く捉え、都市のダイナミズムや複雑さを表現しています。森山の写真は、街角や交差点、ビル群の中に埋もれる人々の姿や日常風景を通して、都市の中に生きる人々の孤独や葛藤、喜びを描き出していることから国内外で高い評価を受けています。

森山大道の写真集「新宿」

森山大道の写真集「新宿」
引用:https://www.tjapan.jp/art/17271643/p2

森山大道は、新宿の街の気風が自身の性格にも似通うところがあるといい、東京の中でも特に新宿の街中で写真をよく撮影してきたことで知られます。

写真集「新宿」には、新宿の街を歩く人々や、誰もいない日中の歓楽街、街中の看板や廃墟のような建物、高層ビルなど、さまざまな新宿の姿を写した作品が掲載されています。

まとめ

長い日本の歴史の中で、日本の芸術がどのように移り変わってきたかを史実と合わせて辿ってみると、その変化や時代背景からの当時の人々の感情などが見えてきて面白いものです。

今回は10つの転機に着目しましたが、興味のある時代の美術品について、調べてみてはいかがでしょうか。

参考

刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/

文化遺産オンライン https://bunka.nii.ac.jp/

画像引用元:https://intojapanwaraku.com/rock/art-rock/6714/

ABOUT ME
あやね
2018年にアメリカ NYへ移住した、京都生まれの大阪人。日本の伝統工芸が持つ独特で繊細な美しさが好きで、着物や器を集めている。郊外の家に引っ越したことをきっかけに、アート作品やアンティーク家具を取り入れたインテリアコーディネートにも興味を持ち始める。アメリカで日常生活に様々な形でアートを取り入れる人々に出会い触発され、2021年より趣味で陶芸をはじめる。