経歴
藤田嗣治(以下、藤田)は、1886年に東京都江戸川区で生まれた画家兼版画家です。
小学生の頃から絵を描き始めました。中学生になるとパリ万国博覧会に日本の中学生代表の一人に選ばれて水彩画を出品しました。また中学に通うかたわら、暁星学校夜間部でフランス語を学びました。
森鴎外のすすめで1905年に東京美術学校西洋画科に入学しました。
しかし、成績はあまり良くなかったと言われています。
その後、1913年に単身パリへ引っ越しました。パブロピカソ、フアングリス、アンリマティス、アンリルソー、シャイムスーティンなど、当時の主要な画家の多くとすぐに仲良くなりました。彼は有名なイタリア人アーティスト、アメデオ・モディリアーニと特に親密な関係を築きました。
1918年に2回目の個展をパリで開催しました。「純粋でナイーブな優美さ」と評され、人気や知名度が高まりました。藤田は美しい女性や猫をモチーフにしました。特に女性の肌の色はラベンダーやグレーのような白と淡い色合いの「乳白色」は、「墨」と「面相筆」を使っていました。面送筆は日本画で輪郭線をひく際に用いられる穂先の細長い筆です。日本では馴染みのある画具ですが、これらを油彩画に用いるなど誰も考えませんでした。このように藤田は、日本芸術とヨーロッパ芸術を融合し、自身の作品を作り上げました。
藤田は自分の作品に真摯に向き合い、毎日制作活動を続けました。猫や女性の作品について藤田は以下のように話しています。
猫は藤田の分身ともいえ、実際に自画像では、藤田と猫はいずれもぴったり寄り添って描かれる。また、猫は女性をあらわすともいう。「可愛がればおとなしくしているが、そうでなければ引っ掻いたりする。ご覧なさい、女にヒゲとシッポをつければ、そのまま猫になるじゃないですか」
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3回目の結婚が決裂した後、藤田はパリを離れて南アメリカに向かい、個展を開催しました。ブラジル、メキシコ、キューバ、アルゼンチンで過ごした後、第二次世界大戦中に日本へ戻りました。戦後、藤田は再び日本を離れてフランスに向かい、1955年にフランス国籍を取りました。
後年、藤田はカトリックに改宗し、ランス市の大聖堂を飾りました。藤田はレオナルド・ダ・ヴィンチに敬意を表してキリスト教の名前レオナルドを採用し、1968年に81歳で亡くなった後、フランスのランスに埋葬されました。
現在、作品はシカゴ美術館、ボストン美術館、ニューヨーク近代美術館、アルゼンチン国立美術館など、世界中の多くのコレクションで見ることができます。
まとめ
藤田嗣治で思い出すのは、おかっぱに丸メガネにちょび髭。渡仏後、東洋人が少ない時代に自身で広告塔になる必要があったそうです。アートの世界において、セルフブランディングの先駆者だったのですね!
参考
翠波画廊「藤田嗣治の絵が値上がりしている?」
Artpedia「【美術解説】藤田嗣治20世紀初頭の最も重要な日本人画家」
美術手帖「藤田嗣治」
iArt「春季特別オークション落札結果 藤田嗣治作品が9,000万円で落札!」
