【パブロ・ピカソ】ゲルニカの値段や鑑賞できる美術館は?本名や名言も合わせて紹介!

Pablo Picasso
アーティスト紹介
ピカソ

DATA

ニックネーム
美術界のカリスマ革命家
作者について
パブロ・ピカソは、20世紀前半に最も影響力のある芸術家の1人として、誰もがその名を知る巨匠です。 美術界に革新を起こしたキュビズムの先駆者であり、その後のシュルレアリスムにも大きく貢献しました。 生涯を通して数々の作風の名画を残しており、『青の時代』『バラ色の時代』などとそれぞれ分けて知られています。 2015年にクリスティーズを通して約215億円で落札された「アルジェの女たち(バージョンO)」は、ダ・ヴィンチの「救世主」に続いてこれまでの美術品オークションの最高落札額2位という記録を残しており、絵画を始め彼の彫刻、陶器作品は、世界中のアートコレクター からの人気を誇っています。

現在の値段

415,366,394円

2013年「夢」(個人売買)約170億円
2015年「アルジェの女たち(バージョンO)」(クリスティーズ)約215億円 
2018年「花かごを持つ少女」(クリスティーズ )約125億円 
2021年「窓辺に座る女」(クリスティーズ)約113億円

クリスティーズで2015年に約215億円で落札された「アルジェの女たち(バージョンO)」は、ダ・ヴィンチの「救世主」に続いてこれまでの美術品オークションの最高落札額2位を記録しました。有名な絵画作品は、数百億を超える価格帯となっており、オークションに出品されるたびにその価値は数倍になっています。「夢」「窓辺に座る女」などのようなピカソの愛人の1人だったマリー・テレーズをモデルに描いた作品はアートコレクター からの人気を集めており、特に高額取引される傾向にあります。

経歴

近代美術で最も有名なアーティストといっても過言ではない、天才芸術家パブロ・ピカソ。

数々のスタイルの作品を数多く残して美術界に大きな影響を与え続け、多彩に活躍した長く色濃いアーティスト人生を振り返ってみましょう。

天才画家ピカソの幼少期〜青年期

パブロ・ピカソ(以下、ピカソ)は1881年にスペインのマラガで生まれました。画家・美術の教授でもあった父親の影響で幼い頃から絵を描き始め、7歳からは父親から正式な美術教育を受け始めます。

父親の教えに沿って、名作の模写をしたり、人物をモデルとして描いたり、石膏模型を参考に人間の身体を描くトレーニングを続けたピカソは、当時から類い稀ない才能を発揮していたといいます。

ピカソが13歳になった頃には、画家であった彼の父親はピカソが自分を超えたと感じ、絵を描くことをやめたそうです。美術講師である父からの英才教育で基礎を徹底して学んだというだけでなく、ピカソには天性の才能があったのでしょう。

その後、13歳のピカソはスペイン・バルセロナで美術学校に飛び級で入学。3年後には、スペイン・マドリッドにある屈指の美術学校、王立サン・フェルナンド・アカデミーに入学しましたが、古典的で堅苦しい授業が気に入らず、入学後ほどなくしてで学校へ行かなくなり、途中で退学してしまいます。

授業で学ぶ代わりに、ピカソはマドリッドのプラド美術館に毎日のように通い、そこでフランシスコ・ゴヤやエル・グレコなどの西洋美術史に名を残した画家たちの名画の模写をすることで絵画のスキルを磨き続けました。

ピカソの暗い経験が作風に反映された『青の時代』

青の時代 ピカソ
引用:Artsy「The Emotional Turmoil behind Picasso’s Blue Period」https://www.artsy.net/article/artsy-editorial-emotional-turmoil-picassos-blue-period

ピカソは長いキャリアの中で、様々な作風の絵画作品を残しました。

その中でも1901~1904年の『青の時代』と呼ばれているこの期間には、駆け出しのアーティストとしての貧困な生活や友人カルロス・カサゲマスの自殺などを経験した、当時19歳だったピカソが暗い気持ちが作品に反映されました。

青の時代のピカソの作品の特徴は、青や緑を基調としていながらも細部に暖色が使われている、一目でわかる特徴的な配色です。

作品の題材も、売春婦の姿や友人の自殺後の肖像など厳しい社会の中で生きる辛さなどを感じ取れる陰鬱なものが多く、当時まだ20歳の若かった彼の自画像にも、若くして多くの悲しみを苦労を経験したような、少し年老いて見える彼の姿が描かれています。

またこの時期から、ピカソはスペイン・バルセロナとフランス・パリを行き来し始め、1904年にはパリを拠点として腰を据えて住み始めました。

画家として成功し始める『バラ色の時代』

バラ色の時代 ピカソ
引用:Pablo Picasso「Pablo Picasso’s Rose Period – 1904 to 1906」https://www.pablopicasso.org/rose-period.jsp

暗い経験が作品に反映された『青の時代』を経て、ピカソが少しずつ憂鬱な気分を克服し、少し明るい雰囲気の絵画を描くようになった1904〜1906年は、ピカソの『バラ色の時代』と呼ばれています。

この時代には、ピカソは画家としてアメリカの美術収集家のパトロンを見つけたりと、少しずつ成功を収めるようになっていきました。

オレンジやピンクのような明るい暖色を基調とし、サーカス団員やハーレークイーンなどを題材を描いているのが、ピカソのバラ色の時代に制作された作品の特徴です。

また、この時期にピカソの最初の恋人となるフェルナンド・オリヴィエと出会ったことで、彼女との日々がピカソの毎日を明るく彩り、彼の画風も優しく暖かくなったと言われています。

近代美術の父セザンヌやアフリカ彫刻の影響を受けた『アフリカ彫刻の時代』

セザンヌ
引用:MUTERIUM Magazine「印象派のセザンヌが「近代絵画の父」と呼ばれる理由とは?その人生と作品解説https://muterium.com/magazine/stories/cezanne-wordks/

『近代美術の父』として尊敬していた後期印象派画家ポール・セザンヌが亡くなった1906年の翌年に、ピカソはその回顧展を訪れ、セザンヌの作品から多くのインスピレーションを受けます。

当時、西洋のアーティストたちは、アフリカの伝統的な彫刻から強い影響を受けていました。ピカソも、アフリカ彫刻の高度に様式化された表現方法から着想を得て、彼の絵画スタイルに落とし込んでいきました。

この時期に制作された作品「アヴィニョンの女たち」は『近代美術史上最も革新的な絵画』と呼ばれ、美術界に衝撃を与えます。古典的な美術様式が好まれ、主流であった当時のフランスで、ピカソは新しい独自のスタイルを見つけ出し、自由に表現をするようになっていきます。

西洋美術史に衝撃を与えた『キュビズムの時代』

「アヴィニョンの女たち」をきっかけとして、ピカソは独自の新しい画風で、これまでの西洋美術の常識を覆すようなスタイルの作品を描くようになります。

ピカソは、フランスの画家ジョルジュ・ブラックとともに、ルネサンス美術を象徴する遠近法のルールや、それまでの西洋美術における伝統的な美術様式を無視して、複数の視点から見たイメージを1枚の絵に集約して表現する『キュビズム』という革新的な技法を作り上げていきました。

新たな三次元の表現方法であるキュビズムをきっかけに、西洋の美術のあり方は大きく変わったといわれています。

キュビズム ピカソ
引用:たそがれくんの地球めぐり「座る女(マリー・テレーズ) パブロ・ピカソ

非現実な表現を開拓した『シュルレアリスム(超現実主義)の時代』

1924年にフランスの詩人アンドレ・ブルドンらが始めた芸術運動として知られる「シュルレアリスム(超現実主義)」は、人間が無意識に持っている欲望などの感情や、夢の中の世界を表現する芸術様式として、哲学者フロイトの「精神分析理論」を元に確立されました。

当時、ちょうど新たな表現方法を模索していたピカソは、この運動の影響を受け、人物を非現実的な姿にして描く作風を用いるようになります。

シュルレアリスム ピカソ
引用:flickr「Venice. Musée Guggenheim. Pablo Picasso. La Baignade. 1937.」https://www.flickr.com/photos/jean-paul-margnac/23842049251

芸術家人生の集大成:晩年のピカソ

数々の作風の名画を残してきたピカソは、晩年はその様々なスタイルを混合させた作品を制作しました。より表現豊かでカラフルな絵画作品や、あえて大きく作った彫刻作品などが、ピカソの晩年の作品に見られます。

また、芸術家としての自身の成長に影響を与えてきた過去の芸術の巨匠たちの古典的な作品を再考し、新たな表現で描きなおすシリーズも制作しました。代表的な作品としては、モネの「草上の昼食」などが挙げられます。

晩年のピカソの作品は、のちに来る『新表現主義』のスタートとして広く知られています。

長いキャリアの中で、ピカソは約2万点以上の絵画・彫刻・陶器・衣装や舞台装置などの作品を残した、最も影響力のある20世紀の著名な芸術家の一人として、現在でも人気のアーティストです。

草上の昼食 ピカソ
引用:Pinterest 「Pablo Picasso – The Luncheon on the grass (Manet) 5, 1961」https://www.pinterest.cl/pin/384494886918680174/

ゲルニカなどピカソの代表作品を紹介:有名な絵画とその値段、収蔵場所など

「人生」1903年

人生 ピカソ
引用:MUSEY「人生(ラ・ヴィ)画家 : パブロ・ピカソ」https://www.musey.net/2175

制作年:1903年、収蔵場所:クリーヴランド美術館

「人生」は、ピカソの青の時代の作品の集大成といわれています。

左側で寄り添っている裸の男女は、ピカソの親友だったカサジェマスとその恋人ジェルメール。自殺してしまったカサジェマスは、恋人のジェルメールを道連れにしようとしたそうです。

親友を救うことができなかった悲しみと悔しさに苦しみつづえたピカソの青の時代の感情がこの作品に強く表現されています。

「パイプを持つ少年」1905年

ピカソ パイプを持つ少年
引用:MUSEY「パイプを持つ少年 画家 : パブロ・ピカソ」https://www.musey.net/592

制作年:1905年

ピカソのバラ色の時代に制作された「パイプを持つ少年」は、1950年におよそ3万ドルでアートコレクターによって購入され、2014年に老舗オークションハウスであるサザビーズにて、1億416万8000ドルで落札されました。これは当時、史上最高の落札額を記録したそうです。

「アヴィニョンの娘たち」1907年

アヴィニョンの娘たち ピカソ
引用:西洋絵画美術館「作品解説「アヴィニョンの娘たち」」https://artmuseum.jpn.org/mu_avinyon.html

制作年:1907年、収蔵場所:ニューヨーク近代美術館(MoMa)

当時、アフリカの彫刻・仮面や、古代スペイン彫刻、古代エジプト彫刻などに影響を受けていたピカソが描いた名作「アヴィニョンの娘たち」は、スペイン・バルセロナのアビニヨー通りから命名されたそうです。

娼婦宿だったアビニヨー通りにいた5人の裸の女性たちを描いたこの作品には、それまでの写実的な表現を目指した西洋美術で用いられていた遠近法などが使われておらず、かなり革新的な表現として話題になりました。

美術史の中では、多角的なイメージを再構築し、1つの絵画で表現する「キュビズム」の始まりとして捉えられています。

「素人闘牛士」1912年

素人闘牛士 ピカソ
引用:Fine Art America「The Aficionado by Pablo Picasso 1912」https://fineartamerica.com/featured/the-aficionado-by-pablo-picasso-1912-pablo-picasso.html

制作年:1912年、収蔵場所:バーゼル市立美術館

「素人闘牛士」は、ピカソがジョルジョ・ブラックとともに確立させたキュビズムの中でも総合的キュビズムを用いた代表作の1つで、コラージュのような手法で、様々な角度から見たイメージを再構築して表現されています。

「泣く女」1937年

泣く女 ピカソ
引用:MUSEY「泣く女 画家 : パブロ・ピカソ」https://www.musey.net/54

制作年:1937年、収蔵場所:テート・ギャラリー

ピカソの愛人の1人で、感情的でよく泣いていた女性、ドラ・マールがモデルとなったと知られている「泣く女」は、1937年に制作された作品で、このテーマに関心を持ったピカソはその後何度も「泣く女」をテーマとして、なんと100種類以上も描き続けたそうです。

現在はイギリス・ロンドンのテート・ギャラリーに収蔵されています。

「ゲルニカ」1937年

ゲルニカ ピカソ
引用:西洋絵画美術館「作品解説「ゲルニカ」」https://artmuseum.jpn.org/mu_gelunica.html

制作年:1937年、収蔵場所:レイナ・ソフィア美術センター

1937年4月に、ナチス・ドイツ軍が内戦状態にあったスペインで、スペイン北部の町ゲルニカを無差別に爆撃した悲劇を描いた作品が、ピカソの有名な作品「ゲルニカ」です。

戦争によってもたらされる恐怖、苦しみ、悲しみなどの感情を強調した大胆な表現方法を用いて描かれたこの作品には、これ以上人々を苦しめる戦争が起きないように願うピカソの強い気持ちが込められています。

本作品は、1937年に開催されたパリ万国博覧会に出品するために制作され、その後、第二次世界大戦が始まったため、「ゲルニカ」はニューヨークの近代美術館(MoMA)に疎開しました。

ピカソは、当時独裁政権が統制していたスペインが民主主義に戻るまで、「ゲルニカ」をスペインに戻さないでほしいと訴えたため、作品は1981年に祖国スペインに戻るまで、ニューヨークで保管されました。

ピカソの作品を鑑賞できる美術館は?

ピカソ美術館
引用:「パリのピカソ美術館の見どころ?カフェやお土産情報も紹介」https://loohcs.jp/articles/3407

長い芸術家としての人生で2万点以上の作品をこの世に残したピカソ。

天才画家ピカソの作品は世界中のアートコレクターによって所有されているほか、各地の有名美術館で鑑賞することもできます。

ピカソ美術館(パリ)

ピカソの遺族によって相続税として物納された作品が収蔵・展示されている、フランスの国立美術館です。

青の時代に制作された代表作「自画像」や、「肘掛け椅子に座るオルガの肖像」、「浜辺を駆ける二人の女」などが収蔵されています。

ピカソ美術館(バルセロナ)

スペイン・バルセロナにあるピカソ美術館は、ピカソの友人で秘書だったジャウメ・サバルテスが所有していたコレクションとバルセロナ市が所蔵していた作品を中心として収蔵・展示されています。

開館以降、ピカソ本人や家族・友人からの寄贈もあって、豊富なコレクションを抱える美術館となりました。

「マルゴット」、「ベネテッタ・ビアンコの肖像 – カナルス夫人」、「ラス・メニーナス」などが展示されています。

ピカソの作品が鑑賞できる海外・日本の美術館

海外では、ニューヨーク近代美術館(MoMa)、フィラデルフィア美術館、シカゴ美術館、リマ美術館、サンパウロ美術館など。

日本国内では、国立西洋美術館、ポーラ美術館、山形美術館、.群馬県立近代美術館、愛知県美術館など。

ピカソの作品を鑑賞することができる美術館は、世界中にたくさんあります。

長すぎると話題のピカソの本名は?

スペインのマラガで、ドン・ホセ・ルイス・イ・ブラスコとマリア・ピカソ・イ・ロペスの間に生まれたピカソ。

彼の正式な本名(洗礼名)はパブロ・ピカソよりもはるかに長く、

『パブロ・ディエーゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・ホアン・ネポムセーノ・マリーア・デ・ロス・レメディオス・クリスピーン・クリスピアーノ・デ・ラ・サンティシマ・トリニダード・ルイス・イ・ピカソ』

という長すぎるこの洗礼名は、アンダルシアの伝統的な習慣によって複数の聖人や親族を称えて名付けられたといいます。

あまりにも長いので、本人もうろ覚えだったそうです。

波乱万丈だった?!ピカソの女性関係

アート界の巨匠として、美術史に大きな影響を与え続けた天才芸術家パブロ・ピカソ。

その生涯やそれぞれの時代の作品振り返って見ると、彼の人生には数々の女性が登場しています。

ピカソが憂鬱な気持ちを抱えていた青の時代に出会い、彼の作品に光をもたらした最初の恋人のフェルナンド・オリヴィエとは約7年間連れ添ったのちに、ピカソがオリヴィエの友人だったエヴァ・グエルと浮気をしたことで関係が終わります。

ピカソの最初の妻は、ロシアの貴族出身のオルガ・コクローヴァで、ピカソは当時キュビズムという表現方法で絵画を制作していましたが、妻をモデルに描くときには新古典主義という画法で、妻オルガだとすぐにわかるように描くよう言われていたそうです。

オルガ ピカソ
引用:東亜日報「ピカソと孫娘」https://www.donga.com/jp/article/all/20210513/2642626/1

オルガとの結婚で社交界デビューを果たし、贅沢な生活を楽しんだピカソでしたが、46歳の時に、17歳のマリー・テレーズと出会い、8年間の不倫の末、妻オルガと別れ妊娠したマリーと暮らし始めました。

しかし、結局ピカソは母親となったマリーに飽きてしまったそうです。

マリー・テレーズ ピカソ
引用:Artpedia「夢 / Le Rêve」https://www.artpedia.asia/picaso-le-r%C3%AAve/

代表作品でも紹介した「泣く女」のモデルとなっている女性は、写真家・画家のドラ・マール

ドラはピカソの代表作が多く生まれた時期の愛人だったそうで、ピカソと別れた後は、精神病院に入院したと言われています。

ピカソが62歳の時には、なんと22歳美術学生フランソワーズ・ジローを新たな愛人にします。

のちに2人の間に子供ができますが、フランソワーズはピカソの女性関係のひどさからピカソの元を去り、当時72歳で初めて女性にフラれたピカソは大変ショックを受けたといいます。

その後、ピカソの2人目の妻となったのはなんとピカソより45歳も若いジャクリーヌ・ロックでした。

わかっているだけでも多くの女性と次々に交際した壮絶なピカソの人生。

それぞれの女性との関係が、ピカソの作品に影響をもたらしていることも見受けられますが、それにしてもピカソと別れた後の彼女たちは、精神を病んだり、自殺をしたりと振り回されていたそうで、自由奔放すぎたピカソの私生活が伺えます。

ピカソの名言

幼少期から才能を発揮し、晩年まで活躍し続けた多彩な天才芸術家パブロ・ピカソ。

長いアーティスト人生の中での自身の経験や環境で、その作風は時代とともに変化しました。

ピカソがどのような人生を歩み、何を感じて作品を制作し続けたのか、彼が残した数々の名言から巨匠ピカソの哲学を学ぶことができます。

ここでは、私が個人的に好きな名言をいくつかピックアップして紹介します。

The meaning of life is to find your gift. The purpose of life is to give it away.
人生の意味は、あなたの才能を見つけること。人生の目的は、それを解き放つこと。

I am always doing that which I can not do, in order that I may learn how to do it.
私はいつも自分のできないことをやる。そうすればそのやり方を学べるからだ。

Painting is just another way of keeping a diary.
絵を描くことは日記を書くことと同じなんだ。

Art is the lie that enables us to realize the truth.
芸術とは、我々に真実を実感させてくれる嘘である。

He can who thinks he can, and he can’t who thinks he can’t. This is an inexorable, indisputable law.
できると思えばできる、できないと思えばできない。これは、無情なゆるぎない法則である。

Love is the greatest refreshment in life.
人生で最もすばらしい癒し、それが愛なのだ。

名言倶楽部「43の名言とエピソードで知るパブロ・ピカソ[英語と和訳]」https://meigen.club/pablo-picasso/

まとめ

ピカソの人生の変遷と各時代に残した様々な様式の作品を振り返って考えてみると、もちろん彼には類い稀ない才能があったとはいえ、心から芸術を愛し、生涯を通して探究心を燃やし続けたピカソの情熱を感じました。

それぞれの作品に強いパワーが宿っていて、観るの心を震えさせることができるアーティストは、きっと1人の人間としても魅力的な人物だったのだろうと思います。

アート作品は、その作家の人生や哲学を知ってから観ると更に深みが増すものだと、今回ピカソについて深く調べてみて、改めて感じることができました。

ピカソが活躍した近代の西洋美術史について知りたい方はぜひこちらの記事も読んでみてください!

参考

Pablo Picasso「Pablo Picasso and his paintings」https://www.pablopicasso.org/

アートをめぐるおもち「ピカソが愛した7人の女性を紹介!女性が変わると画風が変わる?」https://omochi-art.com/wp/picasso-muse/

ABOUT ME
あやね
2018年にアメリカ NYへ移住した、京都生まれの大阪人。日本の伝統工芸が持つ独特で繊細な美しさが好きで、着物や器を集めている。郊外の家に引っ越したことをきっかけに、アート作品やアンティーク家具を取り入れたインテリアコーディネートにも興味を持ち始める。アメリカで日常生活に様々な形でアートを取り入れる人々に出会い触発され、2021年より趣味で陶芸をはじめる。