オノ・ヨーコとジョン・レノン。誰もがその名前を一度は聞いたことがあるのではないでしょうか。
世界的に有名な日本人女性アーティストの代表者とも言える、オノ・ヨーコは、ジョン・レノンと出会う前にも数々の斬新な作品でアート界から注目されていました。
平和活動家として、戦争やジェンダー問題など様々な社会問題に対して、コンセプチュアル・アートや楽曲を通じてメッセージを発信し続けたオノ・ヨーコについてもっと深く知るために、その経歴や現在の様子、ジョン・レノンとの馴れ初めや結婚生活、そして有名な作品などについて、まとめました。
オノ・ヨーコの経歴
独創的なパフォーマンス・アートや、時に過激な平和活動、そして世界的スターとの結婚で有名なオノ・ヨーコは、どのようなバックグラウンドを持っているのでしょうか?
気になる幼少期の過ごし方や、アーティストとなったきっかけ、ジョン・レノンとの出会いなど、その経歴をまとめました。
裕福なお嬢様からニューヨークの前衛芸術家となったオノ・ヨーコ
芸術家・音楽家・平和活動家として世界的に知られるオノ・ヨーコ(以下、オノ)は、1933年に東京の裕福な家庭に生まれました。
幼い頃から詩を書き、ピアノや声楽などのクラシック教育を受けていたオノは、女性として初めて学習院大学の哲学科に入学しましたが、翌年には銀行役員だった父親の転勤に合わせて、ニューヨークに引っ越しました。
オノは、ニューヨークのサラ・ローレンス・カレッジで詩や音楽を学びましたが、そこに彼女が求めるニッチな芸術的側面を見出すことができず、また、在学中に出会った作曲家・ピアニストの一柳慧(以下、一柳)との結婚のために、カレッジを途中退学します。
オノは6年後に一柳と離婚しましたが、彼の紹介のおかげで当時界各国から才能溢れるアーティストたちが集まる街、ニューヨークで活躍していた多くの前衛芸術家たちとの人脈を築き、多国籍のメンバーが揃う前衛芸術運動のグループ「フルクサス」に参加しました。
当時、他のあらゆることと同様に白人男性の芸術家が中心となっていたアートの世界に対して、マイノリティのアーティストが結集したフルクサスでは、メンバーたちがアート作品を通じてそれぞれの社会に対するメッセージを発信し続けました。
1960年、作曲家のラ・モンテ・ヤングとともに企画し、マンハッタンで行われたイベントで、オノはコンセプチュアル・アート作品を発表。大きなキャンバスに、来場者が足を踏み入れることによって創られていくアート作品「PAINTING TO BE STEPPED ON(踏まれるための絵画)」などのような鑑賞者参加型の作品は、人々の注目を集め、その翌年には、初の個展を開催することになります。
1962年から64年の間日本に滞在する間に、映画監督のアンソニー・コックスと再婚し1966年にロンドンに移住。また数年後には離婚します。
1964年に発表された性的暴力を表現したパフォーマンス作品「CUT PIECE(カットピース)」は、鑑賞者がハサミでオノが着ているドレスの一部を切っている間もオノは何も言わずに座っているというもので、のちにフェミニスト・アートの代表作として評価されました。
世界的スター、ジョン・レノンとの出会い
1966年にロンドンのギャラリーで開催されたオノの作品展で、オノは世界的人気を誇ったグループ、ザ・ビートルズのメンバーであるジョン・レノン(以下、レノン)と出会い、その後映画やレコーディングなどでコラボレーション作品を制作しながら親密になり、1969年に2人は結婚しました。
レノンとの結婚を機に一躍世界的有名人となったオノですが、世間からの反応は良いものばかりではなかったそうです。そんな中、2人は結婚後も共同作品を制作・発表し続けます。
中でも話題になったのは、オランダ・アムステルダムとカナダ・モントリオールで開催された「ベッド・イン」で、ホテルのベッドルームを報道陣向けに公開し、世界に向けて平和への想いをアピールしました。
レノンが所属していたグループのザ・ビートルズが1970年に解散した際には、オノはそのきっかけとなったとされ世間からバッシングを受けましたが、そんな中でもオノは新たな表現方法として、音楽活動を始めました。
1975年に、レノンとの間に息子が誕生して、数年間は表舞台に出ない生活を送りましたが、1980年には共同楽曲アルバム「ダブル・ファンタジー」を発表し、グラミー賞のアルバム・オブ・ザ・イヤーを受賞。
2人が世界から注目され続ける中、1980年12月に、レノンは自宅のアパートの前でファンによって射殺されてしまいました。オノは、突然最愛の夫を失ってしまいます。
ジョン・レノンの死後も活動を続けるオノ・ヨーコ
オノは、レノンの死に対する思いを込めたアルバム「Season of Glass」を発表するなど、レノン亡き後も制作活動を続けます。オノはレオンのためにさまざまな追悼活動を行ったり、様々なアート作品を通じて彼との平和への思いを世界に伝え続けたり、彼の未発表の音源の公開を監督しました。
1989年、オノの回顧展がニューヨークのホイットニー美術館で開催、1994年には、オノが執筆したミュージカル「ニューヨーク・ロック」がオフ・ブロードウェイで上演されました。
回顧展「Yes Yoko Ono」は、2000年にニューヨークのジャパン・ソサエティーのギャラリーで開催されたことをきっかけにその後も各地で行われ、多くの人々が来場しました。
2009年のヴェネチア・ビエンナーレで金獅子賞を受賞するなど、オノは21世紀初頭にもアーティストとして活躍し続けています。
オノ・ヨーコの代表作品
平和への思い、ジェンダーや文化の多様性などのようなテーマを表現したコンセプチュアル・アートやパフォーマンスアートが多く知られているオノ・ヨーコの有名な作品を紹介します。
「グレープフルーツ」(1964年)
「カット・ピース」と同じ年に発表された、「グレープフルーツ」は、読者への指示が書かれている小さな本の形をした作品です。
この本は詩集として構成されており、「読み終えたら、この本を燃やしなさい」という文から始まります。
読者のに想像によって作品が完成していくことを目的として作られたそうです。
「天井の絵」(1966年)
ジョン・レノンがオノに興味を持ったきっかけとなったといわれるこの作品は、「YES ペインティング」とも呼ばれており、ロンドンで行われた個展「未完成の絵画とオブジェ」で展示されました。
この作品は、部屋に置かれた脚立に来場客が登り、天井からぶら下がっているキャンバスを虫眼鏡で見て、書いてある小さな「YES」の文字を見るというものです。
オノとレオンの出会いを象徴する作品として知られています。
「ベッド・イン」(1969年)
経歴のところでも紹介した「ベッド・イン」は、レオンとの結婚で世界から注目される中、新婚旅行で訪れたアムステルダムとモントリオールで宿泊したホテルのベッドルームを報道陣向けに解放して開催され、『HAIR PEACE 、BED PEACE』と書かれた画用紙を窓に貼ってベッドインして会見を開き、記者のインタビューに答えるというパフォーマンスです。
2人の平和への思いをアピールするために行われたこのパフォーマンスは、オノにとっても新しい表現方法となりました。
「イマジン・ピース・タワー」(2007年)
光の塔「イマジン・ピース・タワー」は、2007年のジョン・レノンの誕生日にアイスランドで発表されたオノ・ヨーコの屋外公共アート作品です。
レノンへの追悼碑として制作され、ヒット曲「Imagine」にちなんで24カ国語で『Imagine Peace』の文字が刻まれた白い石碑から投射される、高い光でできた塔で、レノンの誕生日である10月9日から、命日である12月9日までの間、レノンとオノのハネムーン期間だった3月20日から27日、そしてオノの誕生日である2月18日に点灯されています。
オノ・ヨーコとジョン・レノン
世界的スターと芸術家の結婚は、世界から注目され、物議を醸し、批判も多くあったといいますが、世界的に有名なカップルとしてレノンとオノには現在でも多くのファンがいます。
恋多き女性として有名だったオノが最後のパートナーに選んだレノンとの関係は、彼女のその後の人生にも大きな影響を与えました。
2人の馴れ初めや有名な共同作品について紹介します。
伝説的歌手ビートルズのジョン・レノンと、オノ・ヨーコの馴れ初め
オノが二度目の結婚を経て、前衛アーティストとしても少しずつその名を知られるようになっていた当時、世界的ブームを起こし今でも多くのファンがいる伝説のバンド、ザ・ビートルズのメンバーだったジョン・レノン。
2人が初めて会ったのは、1966年の秋、ロンドンのギャラリーで行われたオノの個展「未完成の絵画とオブジェ」でした。
ギャラリーは、ビートルズとも関わりのあったアートディーラーのジョン・ダンバー、ミュージシャンのピーター・アッシャー、書店兼作家のバリーマイルズが共同所有していたため、ジョン・レノンもオノの個展に招待されたそうです。
最初はオノの斬新すぎる作品に驚いたレノンでしたが、「天井の絵」を観たことで、オノに興味を持ったと言います。この作品で梯子に登り、虫眼鏡を使って天井の『YES』を見たとき、そのポジティブな感覚に心を奪われたと、のちにレノンは語ったそうです。
当時オノは、2人目の夫であるアンソニー・コックスとまだ婚姻状態にあったものの、レノンとコラボレーションでの作品制作などを通じて信仰を深め、次第に惹かれあった2人は1969年に結婚します。
オノ・ヨーコとジョン・レノンの曲
「ジョンとヨーコのバラード」
オノとレノンが22分41秒間、ただただお互いの名前を呼び合うという作品。
時には囁くように、時にはハイテンションで、など様々な形でただただ2人が『ジョン』と『ヨーコ』を連呼するという斬新な作品は、楽曲というよりコンセプチュアル・アートのように感じます。
「ハッピー・クリスマス」
クリスマスソングとして誰もが知っているであろうこの曲も、オノとレノンの有名な曲の1つです。
平和活動家として様々な作品を通じて世界にメッセージを届け続けた2人らしい、平和への願いが詰まった曲で、サブタイトルは「War Is Over」。
曲中では『War is over, If you want it』というコーラスが繰り返し聴こえますが、これはレノンとオノが1969年12月にアメリカ・ニューヨークのタイムズスクエアに出して話題となった巨大な看板に書かれた文言からきているそうです。
「イマジン」
1971年に米英アルバム・チャートで1位を獲得、その後何度もアワードを受賞している世界的に有名な曲「イマジン」は、実はオノの影響を多く受けて作られたそうで、レノン本人も過去にBBCのインタビューで『「イマジン」はレノン/オノとクレジット表記するべきだった。実際に曲のコンセプトや歌詞はヨーコの詩集作品「グレープフルーツ」からインスピレーションを得たんだ。』と語ったといいます。
2017年に、オノは「イマジン」の共作者として正式にクレジットされることが認められ、楽曲は全米音楽出版社協会によって世紀の歌として表彰されました。
物議を醸したオノ・ヨーコとジョン・レノンのヌード
レノンとオノは、結婚前にジョン・レノン&ヨーコ・オノ名義で発表したアルバム「未完成」作品第一番 トゥー・ヴァージンズのカバーに、裸で手をつないでいる2人の完全なヌード写真を用いました。
前衛的かつ実験的な作品で、世間的にはかなり過激な作品でしたが、レノンにとってはザ・ビートルズ以外での初めてのソロ作品でもあったため、歴史的にも貴重な分岐点であったそうです。
オノ・ヨーコの現在
現在88歳のオノは、2017年に全米音楽出版協会から「イマジン」の賞を受け取った際には、車椅子に乗り、息子のショーン・レノンの補助を受けながら登場したオノは、具体的には公言しなかったものの、彼女が何らかの病気を抱えていることを口にしました。
報道によると、認知症の一種であるレビー小体型認知症という病気を患っているそうで、現在は介護を必要とし、ほとんど外出もしなくなったそうです。
斬新な作品を作り続けた彼女がアーティストとしての活動ができないことは大変残念ですが、残りの人生を家族に囲まれながら幸せに過ごしてほしいですね。
まとめ
これまでにオノ・ヨーコの名前を聞いたことがなかった方はほとんどいないのではないでしょうか。
私ももちろん、彼女とその夫、ジョン・レノンの存在や楽曲などについては知っていましたが、オノがこんなに波乱万丈で充実した、独特な人生を送った女性だったことは今回初めて知りました。
裕福な家庭に生まれたからこそ、幼い頃から芸術に触れ、その才能をいち早く伸ばすことができたのかもしれませんが、彼女の独特な感性とその行動力は、海外でアーティストとして活動して当時の時代を牽引する前衛アーティストたちと切磋琢磨し、たくさんの経験をしたからこそ得られたものだと思います。
彼女の生き方は、私が持つアーティストのイメージそのもので、自分の心に素直に、かつ日常生活から様々な表現方法を通じて世界にメッセージを発信する姿は、唯一無二の芸術家だと感じます。
参考
Britannica「Ono Yoko – Biography」https://www.britannica.com/biography/Yoko-Ono
Artsy「Yoko Ono’s 5 Most Iconic Works」https://www.artsy.net/article/artsy-editorial-yoko-onos-5-iconic-works
MURERIUM MAGAZINE「ジョン・レノンのパートナー、オノ・ヨーコの作品を知ろう」https://muterium.com/magazine/stories/onoyoko/