エドゥアール・マネの生涯
エドゥアール・マネ(Édouard Manet)は、1832年1月23日にフランス・パリで生まれました。父親は主席判事、母親は外交官の娘で、マネは裕福で社会的地位の高い家庭に育ちました。
幼少期から絵画に興味を持っていたマネは、叔父のサポートによって美術館や展覧会を訪れたり、その才能を幼いうちから伸ばしていたようです。
芸術家になりたかったマネですが、父親はマネが法律家になることを望んでいました。これにより親子の対立は長く続きましたが、最終的に父親はマネの意志を尊重し、マネを美術の道へ進ませることに同意しました。
1848年には、父親の希望によって海軍の士官候補生としてブラジルへの航海に参加しました。この経験からマネは多くのインスピレーションを得ており、その後の作品に反映されたと言われています。
海軍から帰国後、正式に美術の道を歩み始めましたマネは、1849年にトーマス・クチュールのアトリエに入門し、6年間にわたって伝統的なアカデミック絵画の技術を学びました。
ところが、のちにクチュールの保守的な教えに不満を抱いたマネは、独自のスタイルを模索し始めます。
その後マネはパリに自身のアトリエを構え、自由な創作活動を始めました。また、ヨーロッパ各地を旅行し、オランダやスペインの画家たちの作品に触れたり交流することで、芸術的視野を広げていったといいます。
1863年に、マネは「草上の昼食(Le Déjeuner sur l’herbe)」を発表し、その伝統的な絵画技法を打ち破る大胆な構図と現実的な描写で美術界に衝撃を与えました。この作品は、美術批評家たちから賛否両論があり話題になりました。
同じ年に、「オランピア(Olympia)」を発表したことで、マネの作品はさらに物議を醸します。この作品は、裸の女性が直接観客を見つめるという当時においてはかなり斬新な表現が用いられていたため、当時の道徳観や美意識に挑戦するものだったことから、保守的な層からは反感を買ったのだそうです。
モネ、ルノワール、ピサロらによって形成されるバティニョール派(後の印象派)から慕われリーダー的存在だったマネは印象派の画家たちと親しく交わり、彼らの活動を支援しましたが、マネ自身は一度も印象派展に参加しませんでした。あくまで自分のスタイルを貫きながら、アカデミックなサロンでの評価を追求していました。マネの斬新な作品は、批判を浴びつつも、そのいくつかが伝統的なサロンで入選しました。
晩年体調を崩したマネは1883年に亡くなりました。
マネの死後1889年に開催されたパリ万博で、代表作「オランピア」が展示された際、アメリカ人コレクターによってに購入されそうになりましたが、マネを画家として尊敬していた同じフランス人画家のモネが作品を購入してルーブル美術館に展示することで、この作品の国外流出を防いだそうです。
マネの作品は彼の没後も多くの後世の画家たちにも影響を与え、今もなおマネの作品は世界中にファンを多く持っています。
エドゥアール・マネの作品の特徴
マネは当時主流であった『理想化された美』ではなく、現実の姿をそのまま描くことを重視しました。(現実主義:リアリズム) マネは、パリの市民生活のワンシーンを切り取って作品に描いたのです。
また、マネの作品は、大胆な構図が印象的です。伝統的な構図に新しい視点を取り入れることで、特に当時の観客や美術評論家には強い印象を与えたことでしょう。
平面的な色彩や明確な輪郭もマネの作品の特徴で、当時の美術界の常識とは違ったものとして批判の対象になりました。
マネの作品には、明暗の強いコントラストが用いられ、光と影の対比がしっかりと描かれています。これにより、よりリアルでドラマティックな仕上がりになっていることから人々を惹きつけました。
エドゥアール・マネの代表作
「草上の昼食(Le Déjeuner sur l’herbe)」1863年
1863年に発表された作品「草上の昼食(Le Déjeuner sur l’herbe)」は、その伝統的な絵画技法を打ち破る大胆な構図と現実的な描写で美術界に衝撃を与えました。
当時においてはかなり斬新だった裸婦の姿を、日常にある『草上の昼食』のワンシーンとして描くことで、伝統的な芸術界のスタイルに対して挑戦したことがわかります。裸の女性が堂々と鑑賞者を見つめていることやその場で脱いだかのようにドレスが近くに置かれていることも伝統的な美術界の評論家たちから批判されるような刺激的な要素だったのでしょう。
「オランピア(Olympia)」1863年
「オランピア(Olympia)」は、1865年のサロンで発表され、それまでの作品以上に激しく批判されたと言われる代表作品です。
横たわる裸婦が手で陰部を隠している様子、またその女性が直接観客を見つめるという当時においてはかなり斬新な表現が用いられています。
この作品は、裸の女性(娼婦)が直接観客を見つめるという当時においてはかなり斬新な表現が用いられていたため、当時の道徳観や美意識に挑戦するものだったことから、保守的な層からは反感を買ったのだそうです。
理想的な美を描くことがスタンダードだった当時に、裸の娼婦とその黒人のメイドの姿をリアルに描くことは、かなり衝撃的だったことでしょう。
また、この作品は1534年頃のティツィアーノによる作品「ウルビーノのヴィーナス」を参考に描かれたそうです。
「鉄道(Le Chemin de fer)」1873年
1874年に発表した「鉄道(Le Chemin de fer)」では、近代的な都市生活と技術進歩を描き、再び注目を集めました。
晩年の作品「鉄道」では印象派のスタイルを取り入れ、駅にいる母と子の姿を普段よりも目立つ筆致と明るい色彩で描いています。
また当時の歴史的背景を考慮すると、先端技術が用いられた蒸気機関車の様子を描いており、世代の違う母と子の目線で現在と未来を表現していることが感じられます。
「自画像」1878〜1879年
マネは多くの人物画を描いたことで知られますが、自画像は2点しか制作していなかったようです。
こちらの自画像を描いたときは40代後半で、その自信に満ちた眼差しや、当時のファッションに身を包んだ姿が描かれています。
また、この作品はとても私的なもので、当時のマネは親しい人にしか見せなかったと言われているそうです。
エドゥアール・マネの作品が見られる場所
オルセー美術館(パリ)
オルセー美術館は、フランスのパリにある美術館で、世界中から多くの観光客が訪れる名所です。19世紀から20世紀初頭にかけての西洋美術の傑作を収蔵しており、特に印象派とポスト印象派の作品が充実しています。
当館にはマネの代表作が多く所蔵されており、「草上の昼食」や「オランピア」などを鑑賞することができます。
メトロポリタン美術館(ニューヨーク)
メトロポリタン美術館は、アメリカ・ニューヨーク市のマンハッタンに位置する、世界最大級の美術館です。膨大なコレクションと幅広い展示内容で知られ、毎年数百万人の訪問者がいます。
収蔵作品は「スペイン人の歌手」や「挨拶する闘牛士」、「ボート遊び」などがあります。
ナショナルギャラリー(ロンドン)
1824年に設立されたナショナルギャラリーは、イギリス・ロンドンの中心部、トラファルガー広場にある世界有数の美術館です。現在では約2300点のヨーロッパ絵画を収蔵しています。
収蔵作品は、「チュイルリー公園の音楽会」「皇帝マクシリミアンの処刑」
間違いやすいモネとマネ
日本人にとって、同じ時代に生きた名前が似た印象派の画家、モネとマネは間違えやすいようです。
クロード・モネは、「睡蓮」「積みわら」「日傘をさす女性」などのような自然の光を取り入れた風景画を連作で描いた画家である一方、マネは新しい独自のスタイルで話題となった作品が多くあり、裸像など人物画が多いと言えます。
まとめ
エドゥアール・マネは、西洋美術史の伝統的な絵画の枠を超えた革新的なアプローチで、印象派の先駆者としての地位を確立しました。マネは近代パリの日常、風俗、肖像、裸婦、風景など様々な作品を残したほか、当時流行していた日本の浮世絵からも影響を受けたとされています。
代表作である「草上の昼食」や「鉄道」などは、現在も多くの人々に愛されています。日本では印象派の作品は人気が高いですが、印象派の先駆者の一人であるマネの作品に触れることで、19世紀のフランス芸術の進化とその背景にある社会の変化を感じ取ることができるでしょう。
参考
気になるアート https://kininaruart.com/artist/world/manet.html
Artsy https://www.artsy.net/artist/edouard-manet/auction-results