クロード・モネの生涯、画家としての経歴
幼少期から青年期
19世紀に起こった印象派を代表するフランスの画家、クロード・モネ(以下、モネ)は、1840年11月14日にフランスのパリで実業家の父と歌手の母の間に次男として生まれました。
モネが生まれてから数年後に、一家はノルマンディに移り住み、美しい風景に囲まれた田舎で育ったモネは、そこで絵を描く楽しみを覚えます。
食料品のビジネスを継いでほしいと願っていた父の意に反して、モネは芸術家を志すようになり、1851年にル・アーブル美術学校に入学しました。
当時モネは、木炭画で特徴を大袈裟に描いた肖像画や風刺画を描いて売っていたので、地域の人々からもよく知られていたそうです。

モネが16歳の時、母が亡くなってしまいます。
学校を退学したモネは、アーティストを目指すことを応援してくれた叔母と暮らすようになりました。
パリへの拠点移動と兵役
パリに移って絵を学びたいと思っていたモネに、当初父は反対していたものの、モネが風刺画・肖像画を売って自分で稼いだお金で移り住むことには許可を出します。そうして1859年にモネはパリへ引越しました。
1861年から本来7年間ある兵役のためにアフリカ騎士団に所属しましたが、病気を患ったことや叔母が除隊の手配をしてくれたため、モネは2年でパリに戻ります。
1862年に入学した美術学校でのアカデミックな美術の授業を好まず、アトリエに通ってルノワールやシスレー、ピサロ、バジールのような画家たちと出会いました。
大衆に開かれた唯一の展覧会で芸術家の登竜門のような場のサロン・ド・パリにも1865年に作品を出品したモネは、「オンフルールのセーヌ河口」と「干潮のエーヴ岬」で入選します。

妻カミーユとの出会いと別れ
サロン・ド・パリに作品を出店しだした頃、モネは未来の妻となるカミーユと出会います。
1867年にモネとカミーユの元には第一子であるジャンが産まれました。そして二人は1870年6月28日に結婚します。
結婚直後、普仏戦争によるモネの兵役を避けるために二人はロンドンに引っ越し、1871年12月戦争が終わってからパリ郊外のアルジャントゥイユへ戻り、アトリエを構え、そこで数々の名作を描きました。
モネは、「緑衣の女」、「庭園の女性」、「セーヌ河岸、ベンヌクール」、「日傘をさす女」、「昼食」などの作品で妻のカミーユや息子のジャンをモデルとして描きました。
夫婦は1878年に第二子のミハエルを迎えますが、カミーユは子宮ガンを患い、翌年に死去してしまいます。

印象派の誕生
1860年代後半ごろサロン・ド・パリに出品していたモネですが、徐々にサロン・ド・パリの企画側の保守的な層から歓迎されなくなっていきます。
当時はモネにとって、経済的にもかなり厳しく苦しんだ時期だったようです。
モネは、自身と同様に明るくあざやかな色彩を用いた写実的な景色を描くなど、当時の常識からすると新しい画風を取り入れていたサロン・ド・パリから拒否されていたルノワール、シスレーなどの画家たちと一緒に無名美術協会を結成し、独立した展示会を企画するようになります。
1874年にモネらが独自で開催した展覧会は、当時重たい色味を用いて絵のテーマがくっきりと描かれるスタイルが主流だったこともあり、世間からは受け入れられず酷評されました。
美術評論家たちは、モネの作品「印象・日の出」を観て、モネたちのグループを『印象主義者』と呼ぶようになります。これが由来して、モネらの画風は美術史において「印象派」と言われるようになったのです。

経済的安定と晩年
モネのパトロンだったデパート経営者で美術コレクターのエルネスト・オシュデ(以下、オシュデ)が破産してしまったことをきっかけに、オシュデの家族はモネと同居を始めました。
モネの妻カミーユ亡き後は、オシュデの妻だったアリスがモネの身の回りの世話もしていたそうです。1891年にオシュデが死去した後、モネとアリスは再婚しました。
モネが経済的に安定したのは、印象派グループの作品を積極的に購入していた画商ポール・デュラン=リュエル(以下、デュラン=リュエル)との出会いがきっかけだと言われています。
デュラン=リュエルは積極的にモネらの印象派の展覧会を支援したほか、アメリカ・ニューヨークでの「パリ印象派の油絵・パステル画展」開催によってフランスの印象派の画家たちがアメリカでも有名になる基盤を作りました。
デュラン=リュエルの支援を得ながら、パリ郊外のジヴェルニーに家と庭を購入して、庭づくりと作品製作をしながら裕福な生活を送ったモネ。
天候や季節、光の当たり方など様々な状況下における一つのモチーフを描いた「積みわら」や「睡蓮」、「ルーアン大聖堂」などをテーマとしたシリーズ作品を多く描き、晩年まで積極的に創作活動を続け、多くの名作を遺しました。
モネは1926年12月5日、胃がんが原因で、86歳でこの世を去りました。
モネが遺した自宅や庭、睡蓮の池は、息子のミハエルが継いだ後、1966年にフランス美術大学に譲渡され、1980年に復元されてから現在まで一般公開されています。
日本の浮世絵コレクションなどモネの所持品も展示されており、印象派の博物館として、世界中から多くの観光客が訪れているそうです。
クロード・モネの代表作品
数々の名作を残したモネの特に有名な作品や連作をピックアップして見てみましょう。
「キャピュシーヌ大通り」1873年〜1874年

パリの35番街にあるアパートから描かれた「キャピュシーヌ大通り」は、第一回の印象派展で展示されたモネの作品の1つです。
現在はアメリカ・カンザスシティのネルソン・アトキンス美術館が所蔵しています。
「ラ・ジャポネーゼ」1876年

当時のパリでは、万博をきっかけに日本ブームが巻き起こっていました。
特に浮世絵は19世紀の若い西洋の画家たちにも多大な影響を与えたと言われており、モネも200以上の浮世絵を所有していたそうです。
「ラ・ジャポネーゼ」は、着物を纏い日本のうちわや扇子に囲まれる、最初の妻カミーユを描いた作品です。
「睡蓮」シリーズ 1898年〜

モネは、晩年までの30年の間に睡蓮を題材にした油彩絵画のシリーズを約250枚描きました。
自宅の庭に日本風の太鼓橋を架けた睡蓮の咲く池を造っていたモネは、睡蓮の花だけでなく水面に映る光や水面の動きを美しく切り取って描きました。
2014年6月、睡蓮シリーズの1つは、ロンドン・サザビーズのオークションにて匿名のバイヤーによって5400万ドル(約61億円)で落札されました。

「積みわら」シリーズ 1888年〜

Monet masterpiece ‘Meules’ sets record with £86m sale at auction in New York
」https://www.telegraph.co.uk/news/2019/05/15/monet-masterpiece-meules-sets-record-86m-sale-auction-new-york/
モネは、1888年から「積みわら」の連作を計30点描きました。
収穫後の畑に干し草が積まれている様子を描いたこのシリーズには、様々な時間や天候での変化を捉え、色彩や光の変化が美しく描かれています。
1890年に制作されたモネの「積みわら(Meules)」は、2019年5月14日にサザビーズ・ニューヨークで開催された「印象派と近代美術イヴニング・セール」にて、1億1070万ドル(約122億円)で落札されました。
これはオークション史上9番目の落札価格で、モネを含む印象派作品として初めて落札額が1億ドルを超えた作品となりました。
クロード・モネが中心となった「印象派」とは

印象派とは、モネなどの画家が参加していた19世紀後半のフランスで起こった芸術運動を指し、印象主義とも言われています。
当時のパリで保守的だったサロン・ド・パリから独立し、印象派の展示会を連続して開催することで、1870年代から1880年代に有名になりました。
当初は美術評論家からは酷評されてモネの作品「印象・日の光」から『印象派』と呼ばれるようになりましたが、後に印象派の画家たちも好んでこの呼び方を使うようになりました。
初期の印象派画家たちはウジェーヌ・ドラクロワとJ・M・W・ターナーのような画家たちの影響を受け、はっきりとした輪郭ではなく光や影の自然な色彩の変化などを屋外制作を中心として描いたといいます。
モネの他にはルノワール、シスレー、セザンヌ、ピサロなどが印象派の絵画を描きました。
クロード・モネの作品を見ることができる美術館
2000点以上もの作品を世に残したといわれているモネの名作は、世界中の美術館で鑑賞することができます。
モネの出身地フランスと、日本国内の美術館をチェックして見ましょう。
モネの作品を鑑賞できるフランスの美術館
マルモッタン・モネ美術館(フランス)

」https://madamefigaro.jp/travel/cityguide/parisguide/180307-monet.html
フランス・パリの中心地から少し離れた場所にあるマルモッタンモネ美術館では、世界最大のモネコレクションを鑑賞することができます。
地下の常設展示会場には、何種類もの「睡蓮」が展示されている他、「印象・日の出」もこの美術館が所蔵していることで有名です。
オルセー美術館ヴァレリー・ジスカールデスタン(フランス)

ルーヴル美術館と並び、フランス・パリを代表する美術館であるオルセー美術館ヴァレリー・ジスカールデスタンには、「草上の昼食」、「日傘の女」、「ひなげし」、「死の床のカミーユ」、「青い睡蓮」など多くの有名作品が展示されています。
オランジュリー美術館(フランス)

フランス・パリにある印象派とポスト印象派の美術館として人気なオランジュリー美術館には、モネの「睡蓮」、「アルジャントゥイエ」など印象派・ポスト印象派の画家たちの作品の数々が収蔵されています。
モネの「睡蓮」を展示するために設計された美術館で、パリのほかの有名美術館に比べると小規模ですが、睡蓮の間は一見の価値ありです。
モネの作品を鑑賞できる日本の美術館
MOA美術館(静岡県 熱海)

MOA美術館はモネの「睡蓮」、「ポプラ並木」を所蔵しています。
敷地内の池では、モネの自宅から持ってこられた睡蓮を見ることができるそうです。
ポーラ美術館(神奈川 箱根)

箱根の観光スポットとしても有名な「ポーラ美術館」では、20点以上ものモネの作品が展示されています。
モネの庭の日本風の橋がかかった池の様子を描いた睡蓮シリーズの絵画などが有名です。
ポーラ美術館は西洋絵画、日本画、ガラス工芸など幅広く約9500点ものコレクションを収蔵・展示しています。
地中美術館(香川県 直島)
瀬戸内海のアートの島として有名な直島にある地中美術館には、日本国内で最大級の「睡蓮」シリーズの5作品を自然光の下で鑑賞できる部屋があります。
美術館は、有名建築家である安藤忠雄が設計を手掛け、直島の美しい景観を保ちながらアート作品を楽しめる場所として2004年に設立されました。
北川村「モネの庭」マルモッタン

モネは自身の邸宅から見える景色を描きたくさんの名作を遺しました。
モネの庭は美しい睡蓮の池などで有名で、モネ自身が創作活動以外の時間を費やして丁寧に庭づくりをした様子が伺えます。
この庭を本場フランスのクロード・モネ財団の指導・監修のもとで再現した高知県の北川村「モネの庭」マルモッタンは、世界で唯一モネの庭を名乗ることを許可されている場所として有名で、多くの人々が四季折々の景観を楽しんでいます。
特に人気のある青い睡蓮は、6月下旬ごろから11月初旬頃に見ることができるようです。
モネの池(名もなき池)

岐阜県関市の板取にある「名もなき池」は、美しい湧き水に睡蓮が咲き、錦鯉が泳ぐ姿がモネの代表作「睡蓮」のようだと2015年にSNSなどで話題になり、通称「モネの池」として知られています。
元々は地元の住民からも知られていない「名もなき池」でしたが、いまでは年間10万人以上が訪れる観光スポットとなりました。
まとめ
コロナウイルスの影響で世の中の様々なルールが変わった2020年、事前予約制かつ観光客が全くいないMoMa(ニューヨーク近代美術館)へ行った際に一番感動したのは、モネやゴッホ、ピカソなどの美術界の巨匠の名作たちが展示されている5階のエリアを混雑なしでゆっくりと鑑賞できたことです。
中でも、モネの「睡蓮」の部屋を独り占めして、大きな絵の前にじっくりと座って名作を眺めることができたのは今までの人生で一番美術館を楽しめていると感じた瞬間でした。
モネの作品は、世界各国・日本国内でも多くの美術館で鑑賞することができます。
普段は人気画家の作品の前には観光客が群がっていることが多く、モネのような有名画家の作品はゆっくりと見ることが難しい気がします。
お目当ての作品を観に行く前に、モネの生涯についてやそれぞれの作品について予習をしておくと、しっかり生の作品を楽しむことができるのではないでしょうか。
参考
Artpedia「【美術解説】クロード・モネ「自然の色彩と光を描く印象主義の創設者」」https://www.artpedia.asia/claude-monet/
Biography of Claude Monet: Famous Artists for Children – FreeSchool https://www.youtube.com/watch?v=ah5g2M14oUM
美術手帖「印象派の過去最高額を更新。クロード・モネの《積みわら》が約122億円で落札」https://bijutsutecho.com/magazine/news/market/19838
北川村モネの庭マルモッタン https://shikoku-tourism.com/spot/10052
気になるアート.com「モネ 絵画作品と所蔵美術館」http://kininaruart.com/artist/world/monet.html
Artsy「Claude Monet – Auction Results」https://www.artsy.net/artist/claude-monet/auction-results

だいたい億単位での落札額になっていることが一般的です。
2019年5月14日サザビーズ・ニューヨークで開催された「印象派と近代美術イヴニング・セール」にて、「積みわら」が約122億円で落札され、印象派作品史上最高落札額を記録しました。