【黒田清輝】妻を描いた「湖畔」などの代表作やフランス留学の経歴、黒田清輝記念館など

Kuroda Seiki
アーティスト紹介
黒田清輝「針仕事」

DATA

ニックネーム
近代洋画の父
作者について
黒田清輝(くろだ せいき)は、日本の近代洋画の先駆者の一人であり、印象派の影響を受けた外光派の代表的な画家です。フランス留学を経て帰国し、日本の洋画界に新しい風を吹き込んだ黒田の作品は、その独自の表現力と明るい色彩で知られています。「湖畔」や「読書」など女性の姿を描いた作品や「落ち葉」のような風景画が有名です。また、後進の指導にも力を注ぎ、日本の美術教育の発展にも貢献しました。

現在の値段

2,000,000円前後

2013年「A boy on the shore」4,200,000円(Ise Art Co. Ltd.)24.31 x 32.51 cm
2017年「WINTER LANDSCAPE」3,171,317円(サザビーズ)26.5 x 35 cm
2020年「荒苑斜陽」140,000,000円(アイアートオークション)133.1×84.6 cm

黒田清輝の作品は、号単価数百万円で取引されています。近年も日本のオークションハウスを中心として取引されているようです。
黒田清輝オークション

黒田清輝の経歴

黒田清輝
引用:https://kotobank.jp/word/%E9%BB%92%E7%94%B0%E6%B8%85%E8%BC%9D-16427

日本の洋画家、政治家として活躍したことで知られる黒田清輝は、鹿児島城下の東千石馬場町(現在の鹿児島市東千石町)で生まれました。黒田は薩摩藩士である黒田清兼の子として生まれ、後に伯父である黒田清綱(通称は嘉右衛門)の養子となりました。

1872年に上京し、平河学校に入学し、そこで巖谷小波(いわやさざなみ)、高根義人(たかねよしひと)、宮島詠士(みやじまえいし)と出会い、その交流は一生続きました。後に、赤坂小学校に転校し、その後漢学塾二松学舎(現在の二松学舎大学)に通いました。1878年、黒田は細田季治に師事して鉛筆画と水彩画を学びました。同時に共立学校に通い、後に築地英学校に転校しました。

東京外国語学校を卒業後、1884年2月2日からフランスに留学しました。最初は法律を学ぶ予定でしたが、画家の山本芳翠(やまもと ほうすい)や藤雅三(ふじまさぞう)、美術商の林忠正に出会ったことがきっかけとなって、ラファエル・コランに師事して画家に転身しました。

1891年には「読書」、1893年には「朝妝(ちょうしょう)」がフランスの展覧会で入賞し、帰国後は美術教育者として活躍しました。

1894年には久米桂一郎と共に洋画研究所天心道場を開設し、印象派の影響を受けた外光派と呼ばれる作風を確立しました。また、翌年には「朝妝」を内国勧業博覧会に出展しましたが、この作品は物議を醸すことになります。1896年には白馬会を発足させ、日本の洋画界の動向を決定付けました。

1900年10月に白馬会展にて展示された「裸体婦人像」が警察から咎められ、絵の下半身を布で覆われる『腰巻事件』はよく知られています。

1905年から1920年までは一橋大学で講師を務め、フランス語を教えました。1910年には洋画家として初となる帝室技芸員に選ばれ、後に帝国美術院院長などを歴任しました。

黒田は1924年に尿毒症で亡くなり、港区長谷寺に埋葬されました。

黒田清輝の代表作品

「読書」1891年

黒田清輝「読書」
引用:黒田清輝油彩画 光学調査

1891年の作品「読書」は、フランス留学中に、画友の久米桂一郎とともに訪れたパリ郊外の小村グレー=シュル・ロワンで豚肉屋の娘マリア・ビヨーをモデルとして描かれた作品です。

マリアの実家の豚肉屋に寄宿していた黒田は、マリアをモデルにさまざまな作品を描いています。黒田本人から言及があったわけではなく、友人によるコメントからですが、マリアと黒田は淡い恋愛関係にもあったとも言われています。

『読書をする女性』というテーマは、当時よく描かれたものだそうです。読書に没頭するマリアの表情や部屋に漏れこむ日差しの描写からは穏やかで暖かい印象を受けます。

1891年にフランス芸術協会のサロンにて出品された本作は、黒田にとって初めてのサロン入選作でもあります。

「落ち葉」1891年

黒田清輝 落ち葉
引用:http://meiga.shop-pro.jp/?pid=159078965

黒田はフランスに留学していた時代から晩年にかけて、雪景色などの風景画を頻繁に描きました。

1891年に描かれた本作「落ち葉」は、フランスに留学中に田舎町のグレー=シュル・ロワン村に滞在し、そこでみた落ち葉の風景を描いたものだそうです。

色鮮やかな落ち葉が柔らかく穏やかに描かれています。

「舞妓」1893年

舞妓 黒田清輝
引用:https://artmuseum.jpn.org/mu_maiko.html

フランス留学から帰国した年の秋に京都を訪れた黒田は、生まれて初めて舞妓を見て魅了され、その姿を描いたと言います。10代からフランスに長くいた黒田は、日本人といえども、その感覚が西洋人に近くなっていたようで、日本独自の文化に対しても『エキゾチックさ』を感じたようです。

舞妓の印象を黒田は、『触ったら壊れそうな気がした』という当時語ったと言われていますが、作品の舞妓たちの姿は健康的に美しく描かれています。

「湖畔」1893年

黒田清輝「湖畔」
引用:https://www.tobunken.go.jp/kuroda/gallery/japanese/kohan01.html

黒田の代表作品「湖畔」は、箱根の芦ノ湖と彼岸の山を背景にした美しい女性の姿を描いています。本作品は今では「湖畔」としてよく知られていますが、明治30年の第2回白馬会展では「避暑」という題名で展示されました。また、1900年のパリ万国博覧会では「智・感・情」と一緒に展示されました。

明治30年の夏、黒田は妻の照子と一緒に箱根で避暑を過ごしていました。この絵はその際に描かれ、後に照子はその時のことを思い出して、『私が23歳の時、夫が湖畔で制作しているのを見に行きました。夫から、その石に座ってみてほしいと言われ、それをやってみました。すると、翌日から絵の勉強をしようと心に決めたのです… 雨や霧の日があったので、結局1ヶ月ほどかかりました』と語っています。

この絵では、日本の夏の高地の静かな風景と湿った空気が、淡い色調と滑らかな筆致で見事に描かれています。

「自画像(ベレー帽)」1897年

黒田清輝「自画像(ベレー帽)」
引用:https://www.nichibun-g.co.jp/data/education/k-bi-museum/k-bi-museum043/

「自画像(ベレー帽)」は、黒田が31歳の時の自画像です。

17歳からフランスに留学し、当初は父の意向で法律を学んでいたものの現地で画家やが学生らと接するようになったことで美術の道を進むことを決心します。

フランス帰りの芸術家であるこの黒田の自画像は、どこか当時の日本人とは違った風貌が服装からもみられます。

黒田清輝記念館

黒田清輝記念館
引用:https://www.tobunken.go.jp/kuroda/

黒田の没後、彼の遺言には遺産を美術の奨励に役立てるようにと記されていたことから、これに基づいて黒田清輝記念館が創設されました。

1928年に竣工した館内には、遺族の方々から寄贈された遺作を展示して画家を顕彰するために黒田記念室が設けられました。

東京・上野の東京国立博物館の近くにある当館では、「湖畔」や「読書」などの黒田の有名な作品を鑑賞できることができます。

黒田清輝記念館
〒110-8712 東京都台東区上野公園13-9
JR上野駅公園口・鶯谷駅南口、東京メトロ上野駅・根津駅、京成電鉄京成上野駅、徒歩15分
観覧料:無料
開館時間:9:30~17:00
入館は閉館の30分前まで
休館日:月曜日(祝日・休日の場合は開館、翌火曜日休館)、年末年始。ただし原則として、ゴールデンウィーク期間とお盆期間中は無休

https://www.tobunken.go.jp/kuroda/

まとめ

黒田清輝は、明治時代から大正時代にかけて活躍した日本における『近代洋画の父』として知られます。

フランス留学を経て印象派の影響を受けた彼の作品は、明るい色彩と豊かな表現力で知られ、日本の近代洋画の発展に大きく貢献しました。

「湖畔」などの有名作品は上野の東京国立博物館の近くにある黒田清輝記念館で見ることができるので、ぜひ訪れてみてはいかがでしょうか。

参考

Wikipedia 黒田清輝

画像引用元:https://www.artizon.museum/collection/category/detail/185 https://artmuseum.jpn.org/kurodatop.html

ABOUT ME
あやね
2018年にアメリカ NYへ移住した、京都生まれの大阪人。日本の伝統工芸が持つ独特で繊細な美しさが好きで、着物や器を集めている。郊外の家に引っ越したことをきっかけに、アート作品やアンティーク家具を取り入れたインテリアコーディネートにも興味を持ち始める。アメリカで日常生活に様々な形でアートを取り入れる人々に出会い触発され、2021年より趣味で陶芸をはじめる。