河原温の経歴
河原 温(かわら おん)は、1932年12月24日に愛知県刈谷市に生まれました。
地元の高校を卒業した後、1951年に上京しました。河原の少年時代のことを記した資料はなく、詳しいことはわかっていないようですが、美術学校などのような正規の美術教育を受けたという記録は残っていないそうです。上京後初めての個展は、東京・新宿のコーヒー店「ブラック」にて開催されたと記録されています。その後同じ年に東京都美術館にて読売アンデパンダン展、日本アンデパンダン展にも参加しています。
初期の河原の作品は、油彩や鉛筆素描などで描かれた具象画が多く、鉛筆素描の作品「浴室」シリーズは、1953年に東京都美術館で開催された第1回ニッポン展に出品され、河原が注目されるきっかけとなりました。
1950年代当時の河原は、「美術手帖」や「美術批評」などの雑誌へ寄稿したり、座談会などにも参加し、芸術家として発言をしていましたが、のちにインタビューや写真撮影に応じなくなったといいます。そのため1966年以降のインタビュー、肖像写真等は存在しません。
1959年からしばらくの間、河原はメキシコに滞在し、その後フランス・パリを経て、1965年からはアメリカ・ニューヨークを拠点としています。
当時、日本では一般国民の海外渡航が制限されていましたが、河原はエンジニアとしてメキシコに滞在していた父親の縁故があったため渡航することができたそうです。メキシコ滞在中の作品は残っておらず、河原が自ら破棄したとも言われていますが、1961年にサロン・デ・ラ・プラスティカ・メヒカーナにて「ビビ夫人の奇妙な夢」、1962年にガレリア・プロテオにて「白い壁の上の8つのデコレーションケーキ」を展示したことが記録として残っています。
メキシコを出た河原は、アメリカに8ヶ月滞在してからフランス・パリにも渡り、その後1965年からアメリカ・ニューヨークに拠点を移します。この時期の河原は、文字や記号などが特徴的な作品を制作していました。
1966年以降は、「日付絵画」を中心として時間や空間をテーマとしたコンセプチュアル・アートの作品に取り組むようになります。河原自身の存在や生を制作の主なテーマとしながらも、河原本人が表に出ることはなく、自身の展覧会のオープニングなどにも出席しなかったといいます。
展覧会の案内などで作者の経歴を載せる際には、『河原が、自身の誕生から展覧会開催当日までに生きた日数』のみ、例えば1998年に東京で開催された回顧展「河原温 全体と部分1964 – 1995」のカタログには『23,772days(Jan. 24, 1998)』とだけ書かれ、展覧会初日の1998年1月24日までに河原が生きた日数が23,772日だという事実のみが記されていました。このように、作者本人として表に出たり情報を開示しないという姿勢を徹底し、それもまた表現活動の一つであったとも言われています。
2014年7月10日に、デイヴィッド・ズワーナー・ギャラリーによって河原が亡くなったことが発表されましたが、その文面に亡くなった日付などの詳細は含まれていなかったそうです。
コンセプチュアル・アートとは?
河原がニューヨークに移ってから制作をし始めた、最もよく知られている作品シリーズ「日付絵画(Date Painting)」や「I GOT UP」などは、ジャンルで言うといわゆるコンセプチュアル・アート (Conceptual art) です。
コンセプチュアル・アートは、1960年代から1970年代にかけて世界的に起こった芸術運動で、1966年から1972年にかけて最盛期を迎えています。
元を辿れば1910年代のフランスのマルセル・デュシャンのレディメイド作品「泉」に由来していると言われており、ミニマルアートをさらに推し進めたもので、絵画や彫刻などのような作品の『形態』に捉われず、むしろその姿がなくてもアイデアまたはコンセプト自体がアートとして成立するという考え方のもとに生まれました。
河原温の代表作品
「浴室」1953〜1954年
「浴室」は、タイル貼りの浴室という閉鎖的な空間に、妊婦などの人物と、断片化した人間の胴体、手足、首などが描かれた鉛筆素描の作品シリーズです。
全28点の作品があり、人間の胴体、手足、首などのパーツが重力を無視して浮遊しているものや、血を思わせるように赤のみ着色がされているものなど、やや凄惨に見える作品も含まれています。
「Today series」1966年〜
1966年1月4日から制作が始まった河原の代表的なシリーズ「Today series」は正式なタイトルで、一般的にはよく「日付絵画(Date Painting)」と呼ばれています。
単色に塗られたキャンバス上に、制作当日の日付のみが白抜きの数字とアルファベットで描かれた作品です。21世紀に至るまでこの日付絵画シリーズの制作は続きましたが、作品の基本的な形式は全く変わっていません。キャンバスのフォーマットはAからHの8種類があり、A型が最小(約20.5 x 25.5cm)、H型が最大(約152.5 x 222.5cm)となっています。
それぞれの日付絵画にはサブタイトルが付けられていて、キャンバスの裏面のステッカーに記入されるほか、制作した日付絵画のフォーマットと合わせて「ジャーナル」にも記録され、そのジャーナルはルーズリーフファイルに入れて保管されています。
「I GOT UP(私は起床した)」1968年〜1979年
河原は、1966年以降に「I READ」「I MET」「I WENT」などのコンセプチュアル・アートのシリーズ作品を制作しており、そのうちの「I GOT UP」は、1968年5月10日に開始されたシリーズです。
タイトルの『私は起床した』という意味の通り、毎日特定の2人に起きた時刻のみを書いた絵葉書を世界各地から送ったもので、文面、差出人、宛先の住所氏名など全てゴム印で記されています。
1979年、このゴム印の入ったかばんが盗まれてしまったことから、このシリーズは終わったといいます。
「I AM STILL ALIVE(私はまだ生きている)」1970年〜
上記で紹介した「I GOT UP」のようなシリーズ作品として1970年から始まったシリーズが「I AM STILL ALIVE(私はまだ生きている)」です。
河原は1969年12月に、パリの展覧会の主催者宛に『私は自殺する気はない。心配するな。』『私は自殺する気はない。心配せよ。』「私は眠ろうとしている。忘れよ。』という自殺を思わせるような言葉を綴った電報を3通送りました。そしてその3通以降の電報は、『I AM STILL ALIVE(私はまだ生きている)』に統一されています。河原は、30年間の間に約900通の電報を数十人の相手に送ったそうです。
生死に関わる情報という重要な内容を電報という簡素な形式で送るという行為から、その大きなギャップを感じさせる作品です。
まとめ
コンセプチュアル・アートの第一人者として知られる河原温。
河原の作品は、50年近く続けて3000点近くの作品を制作した日付絵画のように、それぞれのシリーズが並外れた期間にわたり継続して制作されていることやその作業に打ち込む一貫性が、作品をさらに際立たせています。
海外からは、その作品制作への姿勢の瞑想的な一貫性が、日本人である彼の『仏教的、神道哲学的』なバックグラウンドとリンクしていると見られ、評価されていると聞きました。長年海外で活躍した河原も、元々のアイデンティティを軸に芸術表現を行い、世界に認められたのだと思うと、特に現代美術作品は、鑑賞側自身のバックグラウンドによって、見え方が変わってきて面白いと思いました。
参考
Wikipedia 河原温