マリーナ・アブラモヴィッチの経歴
マリーナ・アブラモヴィッチ(Marina Abramovic:以下、マリーナ)は、1946年11月30日にセルビアのベオグラード(当時はユーゴスラビアの一部だった)で、モンテネグロ出身の両親ダニカ・ロジッチとヴォジン・アブラモヴィッチのもとに生まれました。
両親は、戦後に国から人民英雄勲章を授与され、ユーゴスラビア政府で役職に就き働いていましたが、6歳まで信仰深い祖父母によって育てられたマリーナは、教会に通って幼少期を過ごしたといいます。6歳の時に弟が生まれた後、マリーナは両親と暮らすようになりました。
当時は、ピアノやフランス語、英語のレッスンを受けながら、興味を持っていた絵を描くことを楽しんでいたそうです。
マリーナの母はかなり厳しく支配的で、ある時にはマリーナが『目立ちたがり屋だと思われた』という理由から、彼女を叩いたりもしたといいます。また、29歳まで門限があり、夜の10時以降に家を出ることが許されなかったそうです。
両親の結婚生活もまた悲惨で、父親が12個のシャンパングラスを割って家を出ていった瞬間が、マリーナの子供時代で最も恐ろしい記憶だと語っています。
1965年から1970年まで、マリーナはベオグラードの美術アカデミーに通い、1972年にクロアチア・ザグレブの美術アカデミーで大学院を修了しました。
その後はセルビアに戻って、1973年から1975年までノヴィ・サドの美術アカデミーで教鞭をとりながら、アーティスト活動を始め、初めてのソロ公演を行いました。
1971年にネシャ・パリポヴィッチとの結婚しますが、1976年には離婚してしまいます。離婚後、マリーナは仕事でパフォーマンスを行うためにアムステルダムを訪れ、そのまま永住することを決心しました。
1975年にはドイツのアーティスト、ウライ(Ulay 本名:Uwe Laysiepen)と共同で「二重性」をテーマにしたパフォーマンスを行ったことを機に、その後もウライとマリーナは二人組のパフォーマンスシリーズ「Relationworks(リレーションワークス)」を発表し続けました。
1990年から1995年まで、マリーナはパリのアカデミー・デ・ボザールとベルリン芸術大学の客員教授を務めたほか、1992年から1996年まではハンブルク美術大学の客員教授として、1997年から2004年まではブラウンシュヴァイク美術大学のパフォーマンス・アートの教授として、芸術を教える立場で活躍しました。
マリーナは、パフォーマンス・アーティストとしてヴェネチアビエンナーレやパリの国立近代美術館とポンピドゥセンター、ベルリンの新美術館など数々の大規模な展覧会に参加してきました。
1997年には、旧ユーゴスラビアでの紛争に抗議した作品「Balkan Baroque」(バルカン・バロック)で、ヴェネツィア・ビエンナーレにて金獅子賞を受賞しています。
2005年にはニューヨークのグッケンハイム美術館で「Seven Easy Pieces」(セブン・イージー・ピースィーズ)を発表するなど、アメリカでもそのパフォーマンス・アートが注目されました。
日本にも2004年に来日しており、香川県の丸亀現代美術館、熊本現代美術館で個展「The Star」を開催しています。
ブラモヴィッチの有名な作品
「リズム10」1973年
「リズム10(Rhythm10)」は、1973年にマリーナがエディンバラで行った最初のパフォーマンスです。
パフォーマンスは、20本のナイフと2台のテープレコーダーを用いて、手を広げて指の間にリズミカルにナイフ突き刺していく『ロシアン・ゲーム』を行うというものでした。
パフォーマンス中に自分の指をナイフで刺してしまったらそのたびに新しいナイフを取り出して使い、その音をテープで録音しました。20回失敗した後は、ゲームを中断して録音したテープを聴き、同じ動作を繰り返して過去と現在を融合させながら、失敗を再現しようとしました。
このパフォーマンスを通じて、肉体と精神の限界を探ろうとし、パフォーマーとしての意識状態についても考察しました。
「リズム 5」1974年
「リズム 5(Rhythm 5)」は、極度の身体的苦痛のエネルギーを呼び起こすことを目指して、マリーナが1974年に行ったパフォーマンスです。
大きな星型の中に石油を流し込んで火をつけることで、共産主義の象徴である赤い星を作り、星の外側に立って自身の爪、髪を切って炎の中に投げ入れました。共産主義のシンボルを燃やすことは、またマリーナ自身の政治的伝統に対する肉体的・精神的な浄化を表しているのだといいます。
最後の浄化を表すパフォーマンスとして、マリーナは炎が上がる星の中心へと飛び込みましたが、そこで酸素不足になって意識を失ってしまいます。気付いた医師らがマリーナを救出し、一命を取り留めました。
「リズム0」1974年
「リズム0(Rhythm 0)」は、パフォーマーと観客との関係性の限界を試すことを目的としたパフォーマンスで、最もよく知られている作品です。
マリーナ自身は物体化して、受動的な役割を担い、観客にはバラ、羽、蜂蜜、鞭、オリーブオイル、ハサミ、メス、一発の弾丸が入った銃など、72個の様々なオブジェが用意され、参加者らはそれぞれ好きなオブジェを用いて、マリーナに対して自由に使うよう指示されました。
6時間に及ぶこのパフォーマンスでは、観客たちは始めは消極的でしたが、次第にマリーナは上半身の服を剥ぎ取られ、切り傷を負わされるなど、参加者たちの行動が攻撃的になっていきました。
最後に、6時間ずっと無抵抗で『受動的な物体の役割』をしていたマリーナが歩き出すと、観客たちは怯えて会場から逃げ出していったのだそうです。
マリーナはこのパフォーマンスの後、恐怖のあまり髪の一部が白髪になったと言われています。
「リズム0」は、社会的な結果を伴わない行動において、人間がいかに脆弱で攻撃的になりうるかを確かめるための試みでした。結果として、『大衆は自分の個人的な楽しみを優先し、他者を殺すことすらできる』ということがわかったとマリーナは語っています。
「宇宙の中の関係」1976年
1976年からアムステルダムに移住したマリーナは、西ドイツのパフォーマンス・アーティストのウライに出会います。マリーナとウライは同棲し、コラボレーションでパフォーマンス活動を始めました。
「宇宙の中の関係(In Relation in Space)」は、裸の二人が1時間に渡って何度もぶつかり合うことで、男性と女性のエネルギーが混ざり合い、『あの自分』と呼ばれる第三の成分に混ぜていくというコンセプトで行われたパフォーマンスです。
「時間の関係」1977年
「時間の関係(In Relation in Time)」は、マリーナとウライがポニーテールでお互いをつなげる形で縛られ、16時間背中合わせで座った後、最後の1時間は一般の観客を部屋に入ってもらいそのエネルギーを取り入れて自分たちの限界を押し広げることができるかどうかを試しました
「休息のエネルギー」1980年
「休息のエネルギー(Rest Energy)」は、1980年にダブリンの美術館で行われたマリーナとウライによるパフォーマンスです。
このパフォーマンスは、マリーナの心臓に矢が向けられた弓をウライが引き、マリーナもその弓を支えて、二人がお互いにバランスをとるもので、ウライがその矢を放てば簡単にマリーナを殺せる状況から、『男性が社会的に女性に対してどのような優位性を持っているかを表している』とも捉えることができます。
「恋人たち」1988年
「恋人たち(The Lovers)」は、マリーナとウライの関係性が数年にわたってもつれていた頃、二人の関係を終わらせるための精神的な旅をした作品です。
中国の万里の長城をそれぞれ反対の端から(マリーナは黄海から、ウライはゴビ砂漠から)スタートし、お互いに2500km歩いた後に出発し真ん中で出会って別れを告げるというもので、中国政府から作品制作の許可を得るまでに8年かかったそうです。
当初、二人が中国政府に依頼を出した頃には、結婚の儀式として万里の長城でそれぞれの端から歩いて真ん中で出会うということを考えていたのですが、8年の月日の間に二人の芸術に対しての考えなどのすれ違いがあり、その関係は破綻していったようです。
マリーナは、歩きながら物理的世界と自然とのつながりを再解釈したり、万里の長城と中国の神話との関係性に思いを巡らせたりしたといいます。また、『この作品によってウライとの関係を終わらせることが、神秘的エネルギーや魅力に満ちた二人の関係にぴったりで、映画のエンディングのようなロマンチックな終わりをもたらすと思った。』と語っています。
「バルカン・バロック」1997年
「バルカン・バロック(Balkan Baroque)」は、1990年代にバルカン半島で起こったユーゴスラビア内戦、民族浄化に対しての政治的メッセージを伝えるため、マリーナが4日間に渡り何千頭もの牛の血塗れの骨を力強く掻きむしった作品で、ヴェネチア・ビエンナーレで金獅子賞を受賞しました。
このパフォーマンスからは、戦争がその恥を洗い流すことができないのと同様に骨や手から血を洗うことはできないということが表現され、ユーゴスラビアでの紛争だけでなく、世界のあらゆる場所で起こり続ける戦争に対してのメッセージ性が強く表されていることから、評価されました。
「夢の家」2000年
「夢の家(Dream House)」は、2000年に開催された第一回大地の芸術祭で、日本有数の豪雪地の里山の集落である新潟県十日町市にあった築100年を超える家を改修して作られた、『宿泊できるアート作品』です。
夢の家には、赤・青・紫・緑の4つの寝室があり、宿泊客は銅製のバスタブに入り薬草湯で身を清めて、宿泊する部屋と同じ色の『夢を見るためのスーツ』を着て、黒曜石の枕を備えた『夢を見るためのベッド』で眠ります。そして翌朝、宿泊者は自分の見た夢を『夢の本』に書き残すのです。
マリーナは、忙しい現代生活を送る中で自分と向き合うために夢を見て欲しいとう願いを込めて、「夢の家」を製作したのだといいます。
「セブン・イージー・ピースィーズ」2005年
「セブン・イージー・ピースィーズ(Seven Easy Pieces)」は、ニューヨークのグッゲンハイム美術館で2005年11月から行われたパフォーマンスです。
7時間7連泊で、60年代から70年代に行われた五人のアーティストの代表的なパフォーマンスを再現するというもので、精神的にも身体的にもかなりのエネルギーや集中力が必要とされるパフォーマンスだったといいます。
7日間に渡って行われたパフォーマンスは、ブルース・ナウマンの「ボディー・プレッシャー」(1974年)、ビト・アコンチの「シードベッド」(1972年)、バリー・エクスポートの「アクション・パンツ:生殖パニック」(1969年)、ジーナ・ペインの「コンディショニング 自画像における3つの段階における第一段階」(1973年)、ヨーゼフ・ボイスの「死んだうさぎに写真をどう説明するか」(1965年)そして、マリーナ・アブラモビッチ自身の作品「リップス・オブ・トマス」(1975年)と「他の世界への侵入(エンタイジング・ザ・アザー・サイド)」(2005年)でした。
マリーナ・アブラモヴィッチのNFT作品「The Hero」
マリーナは、2022年6月にCIRCA(Cultural Institute of Radical Contemporary Art)と共同で、「The Hero」と題した初のNFTコレクションを発表しました。
このNFT作品は、マリーナ自身の伝説的なパフォーマンス作品である「The Hero」(2001年)を再演したもので、CIRCAは8月31日まで、ニューヨークからソウルまで、世界各都市の主要なランドマークの屋外スクリーンにて本作を展示しているそうです。
2001年の「The Hero」は、旧ユーゴスラビアにおいて戦後に国から人民英雄勲章を授与された自身の父の死に関連づけて製作されたのに対し、2002年のNFT作品としての「The Hero」では、現在の世界情勢なども相まって『ヒロイズム』の意味も異なってきているとマリーナは語っています。
マリーナは、これまでもアートの常識の枠を超えて表現し続けて着ており、より若い世代からの共感を集めてきたことから、昨今盛り上がっている新しいWeb3のコミュニティは、アーティストとしての自分自身にとってとても重要であると考えているのだそうです。
まとめ
「リズム0」など過激な結果をもたらしたパフォーマンスで世の中に衝撃を与え続けて、強いメッセージを表現し続けてきたマリーナ・アブラモヴィッチ。
日本では、新潟県十日町市で彼女の作品「夢の家」に泊まることができるので、マリーナの世界観を肌で感じてみたい人はぜひ訪れてみてはいかがでしょうか。
また、NFTやWeb3にも興味を示し、作品も発表しているマリーナは現在も活躍を続けているため、今後も注目していきたいですね。
参考
The Guardian「Marina Abramović: ‘I’m an artist, not a satanist!’」https://www.theguardian.com/artanddesign/2020/oct/07/marina-abramovic-im-an-artist-not-a-satanist
Art Basel「‘Only the hero can save us’: Marina Abramović on her first ever NFTs」https://www.artbasel.com/stories/marina-abramovic-on-her-first-ever-nft
「夢の家」 http://www.tsumari-artfield.com/dreamhouse/index.html