【ミケランジェロ・ブオナローティ】ダヴィデ像や最後の審判、ピエタなどの代表作品や生涯について

Michelangelo Buonarrothi
アーティスト紹介
ミケランジェロ

DATA

ニックネーム
肉体美を表現するルネサンス期の天才芸術家
作者について
ミケランジェロ・ブオナローティは、イタリアでルネサンス期に活躍した天才芸術家と称されるうちの一人です。 彫刻家、画家、建築家、詩人、社会活動家として幅広い分野で活動し、秀でた才能を発揮しました。 代表作は「サン・ピエトロのピエタ」「ダヴィデ像」「最後の審判」などがあります。

現在の値段

約554,866,000円(直近36ヶ月の平均落札価格)

2018「Campidoglio And Couple Of Shepherds And Their Flock At The Foot Of Ancient Ruins」¥7,139,876 (Artcurial)
2019「Portrait of Jacques Roettiers」¥9,548,411 (クリスティーズ)
2020「Antigone imploring Oedipus to lift his curse from Polynices」¥15,605,606 (クリスティーズ)
2022「Portrait d'Étienne-Michel Bouret (1710-1777) devant le Pavillon Bouret」¥11,982,192 (クリスティーズ)

ミケランジェロの作品は、絵画作品、彫刻、プリントなど幅広くアートオークションに出品されています。
Artsyによると、直近36ヶ月の平均落札額は約5億5486万円と高額で、販売実績率は83.3%、見積もり価格よりも 258%増しで落札されているようです。
ミケランジェロ オークション結果

ミケランジェロの生涯

ミケランジェロ・ブオナローティ(Michelangelo Buonarrothi)はイタリア・ルネサンスにおける3大巨匠として、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ラファエロと並ぶ天才芸術家のひとりとして知られています。

ミケランジェロは、1475年3月6日にフィレンツェ共和国のカプレーゼ(現在のトスカーナ州アレッツォ近郊)に生まれました。幼少期をフィレンツェで過ごしていましたが、1481年ミケランジェロが6歳の時に、母が長い闘病生活の末に亡くなります。

のちにミケランジェロは、父に人文主義者フランチェスコ・ダ・ウルビーノのもとへ学問のため送り出されましたが、彼は学問に興味を示さず、教会の装飾絵画の模写をしたり、画家たちと交際することを楽しんでいたといいます。

その結果、ミケランジェロは13歳のときに当時のルネサンスの中心・フィレンツェで最大の工房を持っていた画家ドメニコ・ギルランダイオに弟子入り、翌年には彼に一人前の画家として認められました。これは当時では異例だったようで、ミケランジェロが幼い頃から美術の才能に恵まれていたことがわかります。

1489年に、メディチ家当主でフィレンツェの最大権力者であったロレンツォ・デ・メディチのもとにフランチェスコ・グラナッチとともに派遣されたミケランジェロは、1492年までメディチ家が創設した人文主義のプラトン・アカデミーに参加します。アカデミーで学んでいた期間には、ベルトルド・ディ・ジョヴァンニのもとで彫刻を学んだり、哲学を勉強したり、当代一流の人文主義者や詩人たちと交流もしていたのだそうです。

この時期に、ミケランジェロは「階段の聖母」「ケンタウロスの戦い」などのレリーフ(浮き彫り細工)作品を制作しました。

1492年4月8日にミケランジェロの後援者であったロレンツォ・デ・メディチが亡くなったことから、ミケランジェロはメディチ家の庇護から離れて父親の元へと戻ります。この年に、木彫りの作品「キリスト磔刑像」をフィレンツェのサント・スピリト修道院長への奉献用として制作しました。

その後、フランス軍のイタリア侵攻や排斥運動などの影響で、フィレンツェの支配者メディチ家はフィレンチェを追い出されます。ミケランジェロもその頃にはすでにボローニャに移っていました。

フィレンツェの政争が落ち着いた後、ミケランジェロはフィレンツェに戻るも、メディチ家不在のフィレンツェ政府からの作品制作の依頼はなく、フィレンツェ外のメディチ家からの注文を受けて作品を制作していたといいます。

その後、ミケランジェロがのロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ・デ・メディ指示によって加工した「幼児洗礼者ヨハネ」の出来栄えを評価した枢機卿ラファエーレ・リアーリオが、ミケランジェロをローマに招待しました。

1496年、ミケランジェロが21歳のときにローマへ移り、ロレート聖母教会の近くに住みはじめました。

その後教皇庁のフランス大使からの仕事として『イエス・キリストの遺体を抱いて悲しむマリア』を表現した大理石彫刻作品「ピエタ」を制作し、『人間の潜在能力の発露であり、彫刻作品の限界を超えた』と評価され、一躍有名になりました。

ミケランジェロは、ヴェッキオ宮殿に面したシニョリーア広場に設置するための、フィレンツェの自主性を表す象徴となる彫刻の制作を依頼されます。これが、1504年に完成したかの有名な「ダヴィデ像」です。

その後は1508年から1512年にかけてヴァチカン市国の「システィーナ礼拝堂天井画」や「アダムの創造」を制作します。

1513年には、サン・ロレンツォ聖堂のファサードと装飾の現場監督を任され、ミケランジェロは38歳にして初めての建築の仕事に取り組むこととなるも、依頼主の教皇レオ10世とミケランジェロが喧嘩して頓挫したと言われています。

その後のミケランジェロは、ローマとフィレンツェを行き来して制作活動に励みました。

晩年のミケランジェロは、1564年、88歳で亡くなる直前まで、発注による制作でなく、個人的な目的で「ピエタ」を制作していたといいます。

若い頃から芸術の才能を発揮し、禁欲的でストイックだったミケランジェロは、その88年の生涯で数々の大作を遺しました。

ミケランジェロの代表作品

「バッカス像」1496年~1497年

ミケランジェロの才能を見出してローマに呼び寄せた枢機卿ラファエーレ・リアリオによる依頼により、1496年~1497年に制作された「バッカス像」は、ローマ神話のワインの神であるバッカスが酩酊状態で立っており、その背後に性的欲望のシンボルとされる精霊サテュロスがバッカスが持つブドウの房を食べている様子が表現された彫刻作品です。

ミケランジェロの作品は、彫刻も絵画もややオーバー気味に筋肉隆々な身体を表現したものが多いのですが、本作のバッカスは全体的に丸みを帯びた身体付きから、男女両性を表しているのではないかという説もあるそうです。

完成後、なんと依頼主のラファエーレ・リアリオは、『性的欲求』や『男女両性』を表現している罪深い作品であるとして受け取りを拒否したのだそうです。

その後、「バッカス像」はミケランジェロの友人で銀行家のジャコポ・ガリによって購入されました。

「サン・ピエトロのピエタ」1498〜1500年

1498〜1500年に枢機卿ジャン・ド・ビルヘールの依頼により制作された大理石の彫刻作品「サン・ピエトロのピエタ」は、世界最小の独立国でありローマカトリック教会の総本山であるバチカン市国の「サン・ピエトロ大聖堂」内に展示されています。

「ピエタ」は、イエス・キリストの遺体を抱いてマリアが悲しむ姿を表現した作品です。ミケランジェロは生涯で4つの「ピエタ」像を手がけており、「サン・ピエトロのピエタ」だけが唯一完成している作品とされています。

本作は高く評価され、ミケランジェロは天才的な美術家として一躍有名になりました。

また、「サンピエトロのピエタ」は、ミケランジェロが生涯で署名した唯一の作品なのだそうです。

「ダヴィデ像」1504年

『彫刻の肉体表現こそが最も優れた芸術である』と考えていたミケランジェロの代表的な作品の1つが、「ダヴィデ像」です。旧約聖書の登場人物であり、12の部族をまとめて後にイスラエル王となったダヴィデがモデルとなっています。

ダヴィデ像は、他の彫刻家に依頼されたものの途中で中断され25年以上もフィレンツェ大聖堂の中庭に放置されていたところを、フィレンツェ共和国政府が当時まだ26歳のミケランジェロに依頼して制作された、土台も含め高さ517cmの巨大な大理石彫刻です。

「ダヴィデ像」は、まだ若いミケランジェロの圧倒的な才能、技量、創造力を世に示し、彫刻家・美術家としての地位を確固としたものにしました。

この作品は、完成当時屋内に置くべきか、屋外におくべきかが協議され、外の広場に設置されることになったものの、長年雨や風に晒されることによって傷んでしまったため、現在は屋内に移動され、外にはレプリカ像が展示されています。

「聖家族」1506年~1508年

アニョロ・ドーニの依頼によって制作された「聖家族」は、聖母マリアが夫でイエスの養父であるヨセフに両膝で体を支えられながら、振り返りイエスを受け取る姿が描かれた作品です。

「トンド・ドーニ」(ドーニ家の円形画)とも呼ばれています。当時のフィレンツェでは、円形の絵画が流行っていたのだそうです。また、13世紀頃から聖母子像は多くの画家によって描かれたテーマでした。

依頼人のアニョロ・ドーニは、トスカーナ良家の娘マッダレーナ・ストロッツィとの結婚を記念して、この作品を依頼しました。

これまでの「聖母子像」と違い、ミケランジェロの「聖家族」では、聖母マリアを始め、登場人物の筋肉の表現や肉体のうねりなど、細かくダイナミックな肉体表現が見られます。

ミケランジェロは、壁画としては多くの作品を制作していますが、この「聖家族」はフィレンツェに現存する唯一の絵画作品として知られています。

「天地創造」(システィーナ礼拝堂の天井画)1508年~1512年

ローマ教皇・ユリウス2世に命じられ、当時33歳のミケランジェロが取り掛かったのがシスティーナ礼拝堂の天井装飾です。

ミケランジェロは、単純な星空のみが描かれていていたシスティーナ礼拝堂の500平方メートルの天井に、フレスコ画で旧約聖書創世記の9場面である天地創造から大洪水までを描きました。ちなみに、なんと足場から自身で設計した上で天井に300体もの人間の絵を描いたのだそうです。

システィーナ礼拝堂の天井画は、『神による地球の創造』『神による人類の創造、神の恵みからの堕落』『の後その家族に代表される人類の状態』の3つのテーマを描いており、天地創造に関する絵がが3つ、アダムに関する絵が3つ、ノアに関する絵が3つとなっています。

「最後の審判」1536年~1541年

1536年~1541年に制作された「最後の審判」は、システィーナ礼拝堂の祭壇側の壁に描かれたフレスコ画で、現在バチカン美術館を代表する作品です。

「新約聖書」などに記されるテーマ「最後の審判」をもとに『人間が、生前の行いの善悪によって、イエス・キリストの裁きを受け、天国か地獄へ送られる』と様子を描いた内容となっています。

縦1370cm、横1220cmの本作品には、約400名ほどの人物が描かれており、中央で光をまとっているのが、イエス・キリストです。

「教皇ユリウス2世の霊廟」1505〜1545年

「教皇ユリウス2世の霊廟」は、ローマ教皇・ユリウス2世が自身の名を後世に残すためにミケランジェロに依頼し、32年かけて制作された霊廟です。

墓廟は7体の彫刻で飾られており、そのうち最下段の3体旧約聖書に登場する「ラケル」「モーゼ」「レア」のみをミケランジェロが制作したと言われています。

当時のミケランジェロは、システィーナ礼拝堂の天井画などの大きな仕事を抱えていたことから、制作に時間がかかり、墓廟の規模も予定していたものより大幅に小さくなったそうです。

また、「教皇ユリウス2世の霊廟」は当初バチカンのサン・ピエトロ大聖堂内中央に置かれる予定でしたが、最終的にはローマのサン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ聖堂に置かれることになりました。

「ロンダニーニのピエタ」1552〜1564年

ミケランジェロがなくなる数日前まで制作していたという遺作「ロンダニーニのピエタ」は、聖母マリアがイエス・キリストの死体を抱えて悲しむ姿を描く「ピエタ」の中でも、他の作品と違い、イエス・キリストがマリアを背負っているかのように見えますが、この後世については諸説あるそうです。

本作品は、1744年にロンダニーニ侯爵に購入されたため、「ロンダニーニのピエタ」と呼ばれるようになりました。

1952年以降は、イタリア・ミラノにある城塞で現在は美術館としても公開されているスフォルツァ城博物館に展示されており、2004年には修復作業なども行われました。

まとめ

ルネサンス期の芸術家ミケランジェロ・ブオナローティは、「ダヴィデ像」や「サン・ピエトロのピエタ」などの彫刻作品や、システィーナ礼拝堂の天井画「天地創造」、「最後の審判」などの壁画や絵画、また建築などと幅広い芸術分野で若い頃から類い稀ない才能を発揮しました。

500年以上前の人物によって制作されたと信じられないほどのミケランジェロの驚くべき精巧な表現は天才的で、人生で一度は実物を見ておくべきでしょう。

参考

Wikipedia ミケランジェロ・ブオナローティ

Amazing Trip「ミケランジェロの代表作品を徹底解説 – 彫刻・絵画・建築」https://amazing-trip.xyz/t-blog/michelangelo/

Artsy https://www.artsy.net/artist/michelangelo-buonarroti

ABOUT ME
あやね
2018年にアメリカ NYへ移住した、京都生まれの大阪人。日本の伝統工芸が持つ独特で繊細な美しさが好きで、着物や器を集めている。郊外の家に引っ越したことをきっかけに、アート作品やアンティーク家具を取り入れたインテリアコーディネートにも興味を持ち始める。アメリカで日常生活に様々な形でアートを取り入れる人々に出会い触発され、2021年より趣味で陶芸をはじめる。