【竹久夢二】「黒船屋」「宵待草」を創出した大正ロマンアーティスト

Takehisa Yumeji
アーティスト紹介

DATA

ニックネーム
大正の浮世絵師
作者について
竹久夢二(1884-1934)は、大正時代に西洋のロマン主義と日本の風土を融合させた「大正ロマン主義」の代表的な人物です。 画家、作家、詩人、装丁家、挿絵画家として活躍し、細い体に大きな瞳の憂いを帯びた女性を描いた「夢二美人画」で知られています。 人気絶頂期には「現代の歌麿」「日本のトゥールーズ・ロートレックとエドヴァルド・ムンク」と呼ばれました。

現在の値段

92,039円

「黒猫を抱く女」木版 28万円
「雨の日」木版 5.5万円
「自筆草稿 古風な月に(あの頃の日記より)」鉛筆(原稿用紙)20万円

竹久夢二が活躍した大正時代は、西洋文化と日本文化が融合した時代です。軸物の日本画や油彩による洋画、肉筆の詩集などが価格高騰が狙えます。リトグラフの場合は状態の良いものですと20万円〜で手に入ります。オークションで競るよりも画廊での購入が一般的です。

経歴

竹久夢二(以下、夢二)は、1884年9月16日岡山県の酒問屋の息子として生まれました。10代の頃は線描を学んだと言われています。

1901年、17歳になった夢二は、父に連れられて上京し、早稲田実業学校で商売を学び、キリスト教徒や左翼の人達と広い交友関係を築きました。 夢二は在学中から雑誌に挿絵を投稿するようになり、1905年には絵を売って生活できることを知って学校を辞めました。 

学校を出た夢二は、社会主義者らと生活を共にし彼らの労働者階級への共感を得て、政治的な絵を数多く描きました。これらの絵は、社会主義の新聞に掲載されました。

夢二は1907年1月、東京で絵葉書店を営む岸たまき(以下、たまき)と結婚し、以後、絵葉書などのデザインを多く手がけるようになります。しかし、二人の関係は当初から波乱に満ちており、1909年5月には離婚しています。

1909年、初のスケッチと詩の本『夢二画集・春の巻』が出版されました。  彼が描いた情緒的なイメージは、浮世絵に見られるようなノスタルジーに満ちていました。 1910年には初の個展を開催しました。 妻のたまきやその後の愛人たちをモデルにした「美人画」は、同世代の恋愛像のスタンダードとなり、人気を博しました。

夢二の作風は、ドイツの「ユーゲントシュティル」(ユーゲントシュティルはそれ自体が浮世絵の影響を受けていた)の影響を強く受けており、ドイツ美術を作品を研究しました。 また、夢二は藤島武二(1867-1943)にも大きな影響を受けました。

藤島武二の作品

たまきとの離婚後の女性関係も夢二の作品に影響を与えました。1914年夢二は、葛西彦乃と出会い愛人となりましたが、25歳の若さで死去してしまいました。その後、佐々木カ子ヨと友人の紹介で出会い、男女関係になり夢二のモデルとなりました。彼女はまるで夢二の絵から出ていたような女性で「お葉」と呼ばれて親しまれていましたが、破局しました。

1931年、夢二は第二次世界大戦の日本の閉塞感から逃れるために、アメリカとヨーロッパを訪れました。  1933年帰国後まもなく長野の療養所に入院し、そこで50歳の若さで亡くなりました。

夢二は、新版画や草双紙、さらにはグラフィックデザインや文房具のイラストレーションにも多大な影響を与えました。1940年には人気を失っていた夢二ですが、1970年代に入ると、夢二を代表する大正時代への関心が高まり、評価が劇的に回復しました。

夢二はイラストや浮世絵だけでなく、楽譜の表紙や「長崎十二景」(1920年)、「女十代」(1921年)などのシリーズで水彩画であるが、油絵の筆や墨、日本画の技法も用いた作品を発表しました。夢二の作品は人気がありましたが、文展や帝展などの保守的な宣伝効果のある芸術家協会や文芸界を避けていました。

今でも人気があり、一定のコレクターがいるので、美術的価値は高く維持されています。

竹下夢二の作品

「港屋絵草紙店」

1914年から1916年にかけて、たまきと夢二は東京で「港屋絵草紙店」という木版画や紙製品を販売する店を開きました。 夢二は店舗で販売する版画にするための絵を描きました。 

黒船屋

引用:https://www.shinise.ne.jp/unsodo/item/83/

黒船屋のモデルになったのが当時の恋人であった彦乃です。

夢二は12才年下の彦乃と運命的に出会いました。しかし、結核を患った彦乃は夢二のもとから引き離され入院してしまいます。その翌年、傷心を絵筆に託し描かれたのが、夢二の最高傑作といわれる『黒船屋』です。『黒船屋』が完成した翌年に彦乃は25歳で亡くなってしまいました。生涯、夢二の心に残る女性となります。

宵待草(よいまちぐさ)

 夢二は、画家だけでなく約180篇の詩、約430首の短歌、150の小唄などを作っています。

 宵待草は1912年に制作された小唄で、詩集『どんたく』(実業之日本社)に掲載されました。1917年に東京音楽学校(現・東京芸大音楽学部)でバイオリンを学んでいた多忠亮(おおのただすけ)が、この詩に感動して曲をつけました。その楽譜がセノオ楽譜から出版されると、全国的な愛唱曲となりました。下記に歌詞を掲載します。かなり切ない曲ですね。

「宵待草の歌詞」

待てど暮らせど来ぬ人を
宵待草のやるせなさ
今宵は月も出ぬそうな

「宵待草の元になった詩」

遣る瀬ない釣り鐘草の夕の歌が
あれあれ風に吹かれて来る

待てど暮らせど来ぬ人を
宵待草の心もとなき

想ふまいとは思へども
我としもなきため涙

今宵は月も出ぬさうな

まとめ

今回は竹久夢二についてご紹介しました。みなさん一度は見たことある!と思ったのではないでしょうか。夢二グッズ何か持っていますか?私は風呂敷を持っています。

す美 https://www.musubi-online.com/shop/item/furoshikimusubi/picture/goods/590_2.jpg

赤と銀色の可愛い風呂敷です。お弁当を包んだり、プレゼントを持って行くときに使用しています。少しレトロだけど現代ぽい、とてもデザインが可愛いですよね。

夢二は着物のデザインもしていたそうなので、次回は夢二デザイン着物も挑戦してみたいです!!

引用

金沢湯涌夢二館「三人の女性と金沢の縁」

https://www.kanazawa-museum.jp/yumeji/about/p02_fate.html

我楽洞「竹久夢二」

https://www.garakudo.co.jp/kaiga/takehisa_yumeji/

ヒカカク「竹久夢二-美人画の参考買取相場・骨董価値とは?」

https://hikakaku.com/blog/竹久夢二-美人画の参考買取相場・骨董価値とは?/
ABOUT ME
しおり岡
編集長/ライター。小学生の頃はエジプト文化、中学生では西洋美術、高校生は日本の歴史にハマり、大学在学中に仏像に恋をして、学芸員を取得。卒業後、大手人材会社で営業を経験。その後、飲食店の広報・デザイナーを経て、アメリカ・NYにて転職。コロナウイルスのため帰国し、現在は日本に滞在中。趣味は「美術館や遺跡を経験するための海外旅行」。今まで40カ国以上を旅行をし、世界の建築や文化、食事、アートに触れる。