経歴
伊藤若冲(以下、若冲)享保元年(1716年)、京都・錦市場の青物問屋の長男として京都で生まれました。
若冲は幼少期から絵に優れており、10代半ばを過ぎたころに狩野派の大岡春卜(しゅんぼく)に師事したとされます。
しかし狩野派の教えにに馴染めない若冲は中国から伝わる「宋画」を何千枚も模写し、題材や技法を学びました。それだけでは飽き足らず、自分の目で見たものを描こうと考え、庭にいる鳥や動物を描きはじめました。
23歳の時に父が亡くなり、若冲が4代目として家業を継ぐことになりましたが、あまり商売が好きではなかったので、数年後には弟に店を任せ残りの人生は絵を描くことに費やしました。
若冲は30代半ばから後半にかけて、大典禅師の指導を受けることになります。宗教的な指導だけでなく、文学や伝統の洞察、著名な文化人との交流など、その後の芸術形成において大切な結びつきを教えてもらい、修行僧のような生活をしていました。
若冲は42歳から、代表作となる濃彩花鳥画『動植綵絵(さいえ)』シリーズを描き始めます。身の回りの動植物をモチーフに描き、完成まで10年全30を制作し、日本美術史における花鳥画の最高傑作となりました。円山応挙に次ぐ高名な画家として世間に知られていました。
晩年も若冲は絵画の新しい分野に挑戦し続けました。
50代から60代は水墨画や70代になり襖絵を描くなどし、自分の絵の追求をより深くしていきました。1枚の絵と米1斗を交換し、悠々自適な生活を送っていました。
若冲は85歳まで生き、絵に情熱を注ぎ続けました。
若冲の人気
若冲の作品が再評価されたのは、亡くなってから100年以上経った明治時代です。
その評価は明治時代になっても高く、相国寺に所蔵されていた《動植綵絵》が1889年に宮内庁に献納される。御物として一般から隔離されたことにより、若冲の存在はしばらく忘れられることになる。再評価に至ったのは第二次世界大戦後、アメリカのコレクターであるジョー・プライスが若冲の作品を熱心に買い取り、一大コレクションを築いたことに起因する。
美術手帖「伊藤若冲」https://bijutsutecho.com/artists/111
若冲は明治に再評価され、また2000年の京都で行われた若冲の展覧会から再ブームになった珍しい画家です。今後もブームがまだまだ続きそうですね。
裕福な町人の家に生まれた若冲は、本格的に画家になっても、基本的に生活のために絵を描く必要がなかった。だから、狩野派や土佐派の画家とは違い、流派の枠内で縛られることがなく、さまざまな絵画のジャンルから学び、自らの画風を形作ることができたんです。既成の流派とは違う、どことなくユーモラスな画風が現代の人の心を惹き付けるのでは。
BUZ FEED「おいおい5時間並ぶのかよ。「若冲展」はなぜあんなに混雑したのか」https://www.buzzfeed.com/jp/daichi/why-jakuchu
若冲は裕福な家庭に生まれたので、弟からのサポートで高価な岩絵具を購入できました。他の画家と異なり色彩が豊かで今も褪せない作品が多いのも人気の秘訣なのかもしれないですね!
まとめ
伝説の展覧会と呼ばれている2016年東京都美術館の「伊藤若冲展」をご存知でしょうか?ゴールデンウィークだったこともあり、最高待ち時間はなんと300分です。12時に並んでも入れるのが5時?!もう美術館終了時間じゃん。。。と驚いたのを覚えています。
また、若冲はとても無欲な性格であったそうで絵を描き、作品を作ることに喜びを感じていたそうです。それが若冲の魅力でもありますね!
若冲の絵をどこで見ることができるかまとめたサイトがあったのでよろしければ参考にしてください。
*MONOTABI「伊藤若冲の作品はどこで観ることができる?今後の展示会開催予定と一緒にまとめてみた」https://monotabi.net/?p=1626
参考
Wasaku「伊藤若冲とは?奇想の絵師の代表作品と人生の解説、展覧会情報まとめ」
【 あの人の人生を知ろう~伊藤 若冲 】http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/haka-topic43.htm
伊藤若冲の作品には偽物や模造品も多いです。本人直筆サインがあれば1000万円以上になります。数万円で買える水墨画もありますが残念ながら若冲の絵はあまり出回りません。