アートをより深く楽しむために、その歴史を辿ることはとても重要です。
このシリーズでは、西洋美術史の大まかな流れをポイントを抑えてご紹介していきます。
第1回では、のちの西洋美術に影響を与えた、原始美術から初期キリスト教美術までをまとめて解説しました。
今回はその続きに当たる初期中世美術からバロック美術までをご紹介します。
初期中世美術(476年〜10世紀頃)
まず西洋史において中世とは、476年の西ローマ帝国の滅亡以降のことを指し、ローマ帝国はコンスタンティヌス帝の時代に東西に分裂しました。初期中世美術は、その頃から10世紀ごろまで西側で栄えた美術様式であり、同時期に東側ではビザンティン美術が繁栄していました。
初期中世美術が栄えたこの時代には、他民族からの侵略による紛争とともに王朝も頻繁に入れ替わり、社会情勢が目まぐるしく変化していました。西ヨーロッパ(現在のアイルランド)、フランク王国(現在のフランス)、東フランク王国(現在のドイツ)などの地域ではゲルマン民族によってキリスト教文化・美術がさらに繁栄しながらも、多くの民族や地域と結びついて発展し、美術的な観点ではそれらの影響を受けた新しい表現技法も多く広まりました。
初期中世美術で押さえておきたいのは、彩色写本です。彩色写本とは、キリスト教を布教するための手段の1つとして用いられた、福音書や黙示録などが挿絵や飾り文字によって装飾された手書きの本のことを指します。有名な聖書の写本、三大福音書の1つである「ケルズの書」は、アイルランドの国宝に認定され、最も美しい本として貯蔵されています。
6世紀前半頃には、青銅の中にガラスを敷き詰めてジュエリーなどの工芸作品を作るクロワゾネ技法が広まり、8世紀頃には、古代ローマ帝国の文化の復興を目指し、カロリング・ルネサンスが行われました。
ビザンティン美術(5世紀後半〜15世紀頃)
初期中世美術の解説の際に述べたようにコンスタンティヌス帝の時代に東西に分かれたローマ帝国の東側は、その後ビザンティン帝国(東ローマ帝国)となります。西ローマはカトリック教会、東ローマは正教会が中心に建てられていたため、東西では帝国の分裂以前から宗教的な違いも見られていました。
ビザンティン帝国で広まったビザンティン美術は、初期キリスト教美術と古代ペルシャの文化が混合したようなスタイルが特徴の東ローマ帝国の宗教美術です。
初期のビザンティン美術には、初期キリスト教美術の頃から受け継いだモザイク画やフレスコ画なども多く見られていましたが、ローマ帝国の東西分裂後には、神の姿を想起するためのに姿を描くイコン画が広まっていきます。代表作は「ウラジーミルの生神女」で、キリストが真正面を向いている姿を描いた神聖なものとされ、礼拝のための絵画などとして用いられていました。ビザンティン美術の時代には、画家には厳しい制約が多くあり、自由に描く権利がほとんどありませんでした。そのため、この時代の絵画の雰囲気や人物の姿は似通っているそうです。
ロマネスク美術(10世紀後半〜12世紀頃)
初期キリスト教美術より続いているキリスト教建築・美術が、さらに新しい形で発展したのがこのロマネスク美術です。当時は、聖地巡礼のブームや西ローマ帝国の滅亡によるゲルマン民族の流入により、いくつかの文化が混ざり合い、独自の様式ができていきました。
ロマネスク美術を象徴するのは、郊外の修道院などのようなキリスト教建築です。ロマネスク建築の修道院は、信者たちが巡回しやすいように内部は単純な構造になっており、円筒型の石造りの重い屋根を支えるために彫刻が施された太い石柱、厚い壁が用いられ、地域によって様々な特徴のある壁画がフレスコ画を用いて描かれていました。
ロマネスク建築は、重厚で重い石が用いられいたことから、開口部(窓など)を小さく作る必要がありました。そのため、壁画を描くスペースも十分にあり、より自由度の高い表現でキリスト教をテーマとした壁画が多く描かれたといいます。
ロマネスク美術の代表作には、「ピサ大聖堂と斜塔」や「栄光のキリスト」、「サント=マドレーヌ大聖堂」などがあります。
ゴシック美術(12世紀中頃〜15世紀頃)
西洋の中世美術の中で最後の美術様式がゴシック美術です。のちにルネサンス期以降の人々によって、この時代の美術品が軽蔑的に捉えられたことから、『野蛮、奇怪、不格好な』という意味にあたるゴシック美術と呼ばれるようになったそうです。
ロマネスク美術がそうであったように、ゴシック美術にも特徴的な建築様式があります。重厚な石造りであったために開口部を少なく、太い石柱が必要だったロマネスク建築の頃からさらに技術が発達し、飛梁によって建物の重さを分散して外壁を支えることができるようになったため、鋭く尖った高い塔、窓に華やかなステンドグラスを持つ持つ大型の大聖堂が多く建設され、ゴシック美術の象徴となりました。
また、ビザンティン美術などの時代には、厳しい規制によって似通ったパターンで現実的でない絵画が主流でしたが、ゴシック美術期の後半には、絵画のテイストがより写実的になりました。
初期ルネサンス美術(15世紀〜)
中世ヨーロッパにおいて、キリスト教は一気に勢力を持ち広まったものの、立て続けに起こる権力争いなどによって少しずつ教会の持つ権力が弱まっていっていた中で、商人を中心とした市民たちが力をつけていきました。地中海貿易が活発になったことにより、イスラム圏に伝わっていた古代ギリシャ・ローマの文化が西洋に逆輸入されたことをきっかけとして生まれたのが初期ルネサンス美術です。
そもそもルネサンスとは『古典古代の文化の復興』を意味し、神を祀るために用いられ様々な制限もあったこれまでの芸術が、一般市民のためのものとなったほか、当時裕福で権力のあったフィレンツェのメディチ家や、ローマのカトリック教会などのパトロンによる擁護により、芸術活動の仕事に専念することができる環境が整って、建築、彫刻、絵画などのあらゆる分野で多くのアーティストが活躍し始めたのもこの時期でした。
過去の時代の絵画は保守的な宗教画が中心でしたが、初期ルネサンス期以降は、裸体の描写などより自由で写実性を重視した表現が見られるようになっていきます。また、陰影を用いた表現、遠近法などのような新しい技法も多く用いられ始めました。油絵が描かれるようになったのも、この頃からだといわれています。
建築に関しても教会建築だけでなく、一般市民の自宅や役所などにも芸術的なデザインが用いられるようになったようです。
初期ルネサンス期の代表的な作品としては、「受胎告知」、「ヴィーナスの誕生」、「サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂」などが挙げられます。
盛期ルネサンス美術(15世紀末〜16世紀初頭)
初期ルネサンス期の後に、およそ30年間で、「モナ・リザ」や「最後の晩餐」のレオナルド・ダ・ヴィンチ、「最後の審判」や「ダビデ像」のミケランジェロ、「アテナイの学堂」のラファエロなど、後世に語り継がれる天才アーティストたちを生み出したのが、盛期ルネサンス美術の時代です。
当時の学問や技術の進化とともに、解剖学の観点から、絵画の中の人物をより実物の人間に近い表現や構図で描くことができるようになっていきます。
ルネサンス期も引き続きキリスト教を題材にした作品が多く制作されましたが、キリストや聖人たち、また背景や自然の描かれ方がよりリアリティーを持つようになりました。
マニエリスム(16世紀〜17世紀頃)
「様式」や「方法」を意味するイタリア語、「マニエラ(maniera)」を語源とするマニエリスムは、ルネサンス期に天才的なアーティストたちによって完成された様式や調和に従わない16世紀のイタリア美術のことを指します。ルネサンス美術は、人物や自然がありのままに描かれましたが、マニエリスム美術では、画家たちは盛期ルネサンス美術の巨匠たちの様式を真似しながら、独自の強調や歪曲を加えることで、自然を凌駕する表現を残していきました。
マニエリスム美術の大げさな表現は、人物のポーズや身体のパーツの比率、色彩表現などにみられます。
バロック美術(16世紀〜18世紀初頭)
芸術の頂点を極めたといわれたルネサンス期の後に、アートの巨匠たちの模倣から発展したマニエリスムを経て、16世紀〜18世紀初頭の間に発展した美術様式がバロック美術です。
当時マルティン・ルターが行なった宗教改革によって、ヨーロッパ全体が混乱していた中で、急速に広まったプロテスタントへの対抗策として、カトリックの布教に美術が用いられたため、特にカトリックの国において発展しました。
バロック期の作品には、リアルでダイナミックな動きや臨場感を感じられ、光の使い方が上手く明暗がよりわかりやすくなっているという特徴が見られます。それまでメインであった宗教画から、人々の日常生活を描いた静物画、風景画、風俗画、肖像画などのように描かれるジャンルが広がっていきました。
まとめ
今更聞けない西洋美術史の流れシリーズの第2回は、主に中世のヨーロッパを生きた有名なアーティストたちが出てきたので、見たことがある作品があった方も多かったのではないかと思います。
有名画家たちが生きた時代の背景や、前後の美術の特徴などを把握することでまた新たな発見もあったのではないでしょうか。
アメリカ在住の私は、散歩で近所を歩くといくつもの教会の前を通るのですが、今後はその建築様式をじっくり観察してみようと思うと、楽しみが増えました!