【フリーダ・カーロ】眉毛が印象的なメキシコの画家の大事故など波瀾万丈な人生や代表作品、おすすめ映画を紹介

Frida Kahlo
アーティスト紹介
フリーダ・カーロ

DATA

ニックネーム
セルフ・ポートレイト絵画の先駆者/フェミニストアイコン
作者について
フリーダ・カーロは、メキシコを代表する近代画家で、フェミニストのアイコンとしてもよく取り上げられる人物です。大事故や夫の不倫、繰り返す流産など壮絶な人生を経験しながらも、世界的に認められた画家として、多くの作品が高く評価されており、2021年には、「ディエゴと私」がサザビーズにて約40億円で落札され、中南米のアーティストでは史上最高額を記録しました。

現在の値段

約1,955,970,000円(直近36ヶ月の平均落札価格)

2020「CONGRESO DE LOS PUEBLOS POR LA PAZ」(サザビーズ)346,858,680円 
2021「Diego y yo」4,548,673,434円(サザビーズ)
2022「Self-Portrait (Very Ugly)」1,125,856,332円(クリスティーズ)

2021年11月16日に「ディエゴと私」がサザビーズにて約40億円で落札され、中南米のアーティストでは史上最高額での落札となりました。フリーダの作品は、大手アートオークションハウスによって出品され、数億円以上の価格で取引されています。
フリーダ・カーロオークション落札価格

フリーダ・カーロの人生

メキシコの画家フリーダ・カーロFrida Kahlo:以下、フリーダ)は、メキシコや先住民の文化に目を向けた作品や、フェミニストとして女性の体験や姿を描いた作品が高く評価されてきた女性画家です。

フリーダは、約200点の絵画、スケッチ、ドローイングなどの作品を残しており、大胆で鮮やかな色彩を使い、彼女の人生における経験を描いたものがほとんどで、その大半が自画像だったことで知られています。

本名はマグダレーナ・カルメン・フリーダ・カーロ・イ・カルデロン(Magdalena Carmen Frida Kahlo y Calderón)で、1907年7月6日にメキシコのメキシコシティ近郊にあるコヨアカンに、写真家であったハンガリー系ユダヤ人の父ギリェルモと、メキシコ系の母マティルデの間に、三女として生まれました。

フリーダの父ギリェルモは自身の母が亡くなったのを機に1891年にメキシコに移住し、のちにメキシコで初の公式写真家としての地位を築きましたが、1935年には彼の出身地であるドイツではナチスの台頭によって、ユダヤ人の排除が行われました。このストーリーの影響を受け、フリーダは翌年に「私の祖父母、両親そして私(家系図)(My Grandparents, My Parents, and I (Family Tree))」を制作しました。

幼少期に急性灰白髄炎を患ったフリーダは、約9ヶ月もの間寝たきりの生活を送ることを強いられ、その影響から右太腿からくるぶしにかけての成長が止まって痩せ細ってしまい、その後もリハビリを兼ねた運動などをしたものの元に戻ることはなかったといいます。その脚を隠すために、メキシコ民族衣装のロングスカートやズボンなどを好んで着るようになったのだそうです。

1922年にドイツ人上級実業学校を卒業した後、ソカロにあるメキシコの最高教育機関であった国立予科高等学校に、他の35人の女性と共にその年に女性として初めて入学しました。

在学中は、カチュチャスというグループに所属して、国民社会主義的考えに傾倒していきます。カチュチャスにはさまざまな分野でのちに活躍することとなる優秀なメンバーが揃っていたそうで、作家のオクタヴィオ・ブスタマンテ、ミゲル・N・リラ、作曲家のアンヘル・サラス、ジャーナリストのアレハンドロ・ゴメス=アリアスなども所属していました。グループのリーダーであったアレハンドロとは情熱的な恋愛関係にあったそうです。

1927年9月17日、18歳の時にときにフリーダが乗っていた通学バスが路面電車と衝突する事故が発生し、背骨、鎖骨、肋骨の複数骨折、骨盤の粉砕、足の骨折、肩の脱臼という生死の境を彷徨うほどの重傷を負いました。

痛みに苦しみながらも退屈していた病院での療養中に、アレハンドロとの関係も自然消滅し、絵画に没頭するようになったフリーダは、通常の生活を送れる状態に回復するまでの1926年から1928年の間に十数枚の作品を制作しました。

1928年、事故の集中的な療養を終えた後、フリーダは知識人やアーティストたちが集う活動サークルに参加し、メキシコ共産党へ入党し、そこで画家ディエゴ・リベラと出会いました。絵画の話で盛り上がった二人は、急速に関係を縮め、1929年8月21日に二人は結婚します。リベラは、フリーダの21歳年上でした。

当初二人はメキシコシティ中心部に住んでいましたが、その後リベラの仕事の関係で、クエルナバカ市、アメリカ・カリフォルニアのサンフランシスコ、ニューヨーク、デトロイトなどを転々とすることになります。二人は、このことからメキシコ共産党の党員資格を剥奪されました。

フリーダは1930年、1932年、1934年に妊娠するも、過去の大事故の影響で骨盤や子宮に損傷があったことが起因し、流産してしまいます。このような経験は、フリーダに深い悲しみを与え、その後の作品に大きな影響を見ることができます。

1933年にメキシコに戻ったフリーダとリベラは、メキシコシティの南郊外サン・アンヘルに、知人の建築家ファン・オゴールマンに家を建ててもらい、そこに落ち着くことになりますが、2年後にリベラがフリーダの妹と不倫したことにより、フリーダは家を出てメキシコシティ中心街に移ります。のちにサン・アンヘルの家へ戻ることになりますが、怒りがおさまらなかったのか、リベラへの当てつけのようにフリーダは日系アメリカ人の彫刻家イサム・ノグチと関係を持ったと言われています。

1936年7月に勃発したスペインでの内戦がきっかけとなり、フリーダは共和国側を支援するための連帯委員会を創設するなど再び政治活動にのめり込むようになります。

1938年、フリーダは初めての大規模な海外での個展を開催しましたが、この個展を見たバートラム・D・ヴォルフによって、ヴォーグ誌で『フリーダの作品は、他のシュルレアリスムの画家の作品と異なった独自の世界観を持っている』と評価されました。その年には、ニューヨークのジュリアン・リーヴィ・ギャラリーでも個展を開催しました。

1939年、映画俳優のエドワード・G・ロビンソンがフリーダの作品に注目し、大量に購入したことから、アメリカでの仕事が増え、画家としての成功がアメリカでも知れ渡るようになります。MoMA(ニューヨーク近代美術館)の館長アンソン・グッドイヤーやジャーナリストのクレア・ブース・ルースなど各方面の著名人からも絵の注文を受けるようになりました。

その年に、フランス・パリで開催された「メキシコ展」の支援のためにパリを訪れ、のちにルーヴル美術館がフリーダの作品「Self portrait the frame(ザ・フレーム)」を購入しました。

1939年11月6日にリベラとの離婚が成立し、1904年に両親が建てたフリーダの生家である「青い家」に戻ります。孤独を感じながら過ごしていたフリーダは、さらに作品制作に没頭していきますが、1940年9月に再び脊椎の痛みが出始めたことや右手の急性真菌性皮膚疾患によって、作品制作が困難になり、治療のためにサンフランシスコへ移ることとなりました。

治療を続けて症状が安定した頃、経済的に自立することや性的関係を結ばないことなどを条件として、フリーダはリベラへ再婚の提案を行い、二人は再婚することになりました。サン・アンヘルの家はアトリエとして使用し、二人は「青い家」で共に生活するようになります。

1940年代には、メキシコにおいてもフリーダは画家として有名になり、さまざまなを受賞し、複数の委員会委員に選出され、講師の委嘱や雑誌の寄稿などを受けるようになりました。

1940年代の終わり頃から再び健康状態が悪化し、入退院を繰り返すようになったフリーダは、寝たままでも制作できるように工夫もしたものの鎮痛剤なしでも生活が難しくなり、徐々に創作活動ができなくなっていきます。

右足の痛みから、膝までの切断を決意したフリーダは、義足を使用して生活するようになりますが、時に『自殺したい』と正気を失うほど苦しんでいたといいます。

1954年7月13日、フリーダは肺炎を併発して亡くなりました。フリーダの遺体は火葬されたのち、その遺灰は先征服期に作られた壺に入れられて「青い家」に安置されています。

1958年7月12日から現在まで、「青い家」は「フリーダ・カーロ記念館」として公開されており、フリーダの残した作品や民芸品、奉納画や絵のコレクション、使用した絵画道具や手紙、日記などが展示されています。

2021年11月16日には、フリーダの作品「ディエゴと私」がサザビーズにて約40億円で落札され、中南米のアーティストでは史上最高額での落札となりました。

パブロ・ピカソジャクソン・ポロックなどの近代美術界の巨匠たちと並ぶ価格が付けられたことから、フリーダのアーティストとしての世界的な評価は、絶対的なものになっているといえるでしょう。

フリーダ・カーロの代表作品

「The Two Fridas(二人のフリーダ)」1932年

フリーダの最も有名な代表作品の一つである「The Two Fridas(二人のフリーダ)」は、夫のディエゴ・リベラと離婚した際に感じた自身の苦痛を描いた作品です。

それぞれ西洋風の衣装と、メキシコの伝統的な衣装を身に纏ったフリーダが描かれており、手を繋ぎ、血管のような管で繋がった二人の身体からは血を流す心臓が見えています。背景の荒々しい空模様も合わさって、フリーダの苦難や心身の痛みを表しているようです。

「A Few Small Nips(ちょっとした刺し傷)」1935年

「A Few Small Nips(ちょっとした刺し傷)」は、夫のリベラと自身の妹との不倫により、深い悲しみと怒りに苦しんだフリーダがその心境を描いた作品です。

血を流す裸の女性は、ナイフを持った殺人者の男の横のベッドで横たわり、上半身と下半身がねじれています。このシーンやタイトルは、実際にあった殺人事件からにも基づいており、何度もガールフレンドを刃物で刺して殺害した犯人は法廷で、『私は彼女にちょっとした刺し傷を与えただけだ!』と主張したのだといいます。

「Self portrait the frame(自画像:ザ・フレーム)」1938年

「Self portrait the frame(自画像:ザ・フレーム)」は、1939年にフランス・パリのルーヴル美術館が購入した作品として有名です。本作品は、ルーヴル美術館が初めて購入した20世紀のメキシコ人画家による作品でした。

フリーダの自画像とその周りの青い背景はアルミニウムのシートに描かれているが、鳥と花による色鮮やかなフレームは、肖像画の上に置かれたガラスの裏側に描かれていて、フリーダが新たな表現として混合媒体を試した作品だとされています。

「Self-portrait with Monkey(猿のいる自画像)」1938年

フリーダは、自画像を多く描いたことで知られていますが、その中でも猿、犬、オウムなどの主にペットとして飼っていた動物とともに自身の姿を描いた作品があり、「Self-portrait with Monkey(猿のいる自画像)」もその1つです。

猿は、メキシコの神話において『欲望の象徴』でもありますが、この作品で描かれている猿は優しい表情を浮かべてフリーダの首に腕を回しています。

また、この作品は、MoMA(ニューヨーク近代美術館)の館長アンソン・グッドイヤーからの依頼によって製作されました。1938年10月開催されたジュリアン・レヴィのギャラリーでの個展でフリーダの作品に魅了されたアンソン・グッドイヤーは、当初「フラン・チャンと私」を購入する予定だったものの、その作品はフリーダの友人に贈られたため、本作品を依頼することになったという経緯があるのだそうです。

「Thinking About Death(死を考える)」1943年

晩年のフリーダは過去の事故などの影響もあり多くの病気の合併症に苦しみました。「Thinking About Death(死を考える)」はセルフポートレート作品の1つで、健康状態が悪化し、寝たきりで過ごしていた中で制作した作品です。

フリーダの額に頭蓋骨が描かれており、これは古代メキシコの文化で死が復活や命を意味していることに由来しており、背景に描かれる緑の植物に生を感じるのと対照的になっています。

「Without Hope(希望をなくして)」1945年

「Without Hope(希望をなくして)」

「Without Hope(希望をなくして)」は病院で療養中のフリーダが1945年に自身の状態を題材に描いた作品です。

繰り返す手術や病気の影響により、食欲を失って痩せこけて栄養失調になってしまったフリーダは、タイトルの通り希望を見失っていました。医師は2時間ごとに流動食によって、強制的に太らせるための食事療法を行っていました。

「Viva La Vida(人生万歳)」1954年

生死を彷徨う大事故や夫の不倫、繰り返し経験した流産、画家としての世界的な成功など波瀾万丈な人生を送ったフリーダですが、彼女は死の8日前に日記の中で『私は出口が楽しいことを願っている。そして私は絶対に戻らないことを願っている』と綴っていたといいます。

フリーダの最後の作品「Viva La Vida(人生万歳)」は、いのちに対するオマージュとして表現されたと言われています。

肉体的に弱っていき自身の死が近いことを感じていたであろうフリーダの状態とは裏腹に、鮮やかな赤色のスイカと『Viva La Vida(人生万歳)』というメッセージは明るく写ります。

フリーダ・カーロの映画

「フリーダ・カーロの遺品 石内都、織るように」

「フリーダ・カーロの遺品 石内都、織るように」は、写真家の石内都の目線で、フリーダ・カーロの遺品から画家の『一人の女性』としての姿を紐解いていくドキュメンタリー映画です。

3週間にわたる石内都の撮影過程に密着し、フリーダの遺品や写真、またメキシコの死者の日の様子や現地のダンサーを取り上げたシーンを通して、その背後に広がるメキシコの風土、引き継がれる伝統、現在を生きる女性たちの姿をも捉えた作品となっています。

「フリーダ・カーロに魅せられて」

「フリーダ・カーロに魅せられて」では、フリーダが生まれ育った「青い家」やメキシコシティの美術館やギャラリー、世界各国で開催された個展の様子などが含まれており、フリーダの作品の数々を、解説と合わせてまとめて鑑賞することができます。

美術館の学芸員や大学教授などの専門家が登場し、フリーダの作品についての解説や主題、技法について語ってくれるため、フリーダの作品についてより深く知りたい方にはおすすめです。

「フリーダ」

「フリーダ」は、フリーダの人生がドラマとして描かれた作品です。

作品中で流れる音楽は、メキシコ伝統音楽をベースにしたものばかりで、メキシコの文化が美しく照らし出されています。伝統的な衣装を好んで着たことで知られるフリーダの衣装やヘアスタイルやアクセサリーなども見どころです。

「リメンバー・ミー」

フリーダがメインとなる映画ではないので番外編ですが、ディズニー/ピクサーの作品としてアカデミー長編アニメーション賞を受賞した「リメンバー・ミー」にも、フリーダ・カーロがキャラクターとして登場します。

『死者の国』メキシコのある町を舞台に、家族のつながりを描いた感動のファンタジー・アドベンチャーで、メキシコの伝統文化を音楽や衣装、登場するキャラクターから感じることができます。

フリーダ・カーロの評価

フリーダは、美術界を中心に多くの著名人からも高い評価をされてきました。

画家としての彼女自身や作品についてどのように評価されてきたかの例として、ニューヨーク・タイムズ紙の共同チーフ美術評論家であるホランド・コッター氏の評価を紹介します。

他のカルト的な人物と同様、彼女の芸術における綿密に計算された自己像や、ご都合主義のナルシシズムを嘲笑する人たちがいる。彼女は自己顕示欲が強かったのだろうか?もちろん、そうだ。彼女が言ったように、彼女は自分の芸術だった。しかし、彼女の主観は広々としていて、共感できるものだった。政治、宗教、セクシュアリティ、エスニシティを包含しているため、ほとんど自虐的になっている。私は、伝記の詳細は、カーロの作品を理解するためのほんの始まりに過ぎないと思っている。

また、誇大妄想という非難は、社会的な偏見に由来するものであることも指摘したい。ピカソの芸術は、伝記というレンズを通して見るのが一般的で、作品群は、この女性やあの女性に対する彼の感情的な反応の証拠であり、彼の天才という活動的な要素であると言われています。このような芸術をエゴマニアと呼ぶことに対して、真剣に文句を言う人はほとんどいない。ピカソは自分の創作領域を広げていた。

https://www.nytimes.com/2008/02/29/arts/design/29kahl.html

フリーダの人生において起こった出来事を振り返ると、なんとも不遇なことが連続して起こっていますが、彼女はアーティストとして、自分自身を『ミューズ』とし、その心身の状態を大胆に表現してきました。

後世にも渡って評価され続ける美術作品とは、単に作品の芸術的スキルや表現のレベルの高さや斬新さが評価されるのではなく、時代背景とその画家自身の境遇、どのように生きたかという画家の存在や生き様そのものも大きく関与していると言えるのではないでしょうか。

まとめ

メキシコを代表する女性画家フリーダ・カーロは、現代でも多くの人々に影響を与える存在となっています。

彼女の壮絶な人生とその作品を辿ってみると、情熱的で強い精神を持った女性であったことがわかります。フリーダは、その生き方や作品の中でもジェンダーの固定観念を打ち砕いてきたことから、フェミニストのアイコンとしてもしばしば引用されます。

フリーダ・カーロについてもっと知りたい方は、ぜひ本記事でおすすめした彼女に関連する映画を観てみてください。

参考

Frida Kahlo Organization https://www.fridakahlo.org/

Wikipedia フリーダ・カーロ https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%80%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AD

ABOUT ME
あやね
2018年にアメリカ NYへ移住した、京都生まれの大阪人。日本の伝統工芸が持つ独特で繊細な美しさが好きで、着物や器を集めている。郊外の家に引っ越したことをきっかけに、アート作品やアンティーク家具を取り入れたインテリアコーディネートにも興味を持ち始める。アメリカで日常生活に様々な形でアートを取り入れる人々に出会い触発され、2021年より趣味で陶芸をはじめる。