【エゴン・シーレ】ジョジョの元ネタ?クリムトに認められた画家の生涯や代表作品、開催中の「エゴン・シーレ展」について

Egon Schiele
アーティスト紹介
死と乙女エゴンシーレ

DATA

ニックネーム
ウィーンが産んだ若き天才
作者について
エゴン・シーレはオーストリアの表現主義を牽引する画家の一人です。多くの肖像画や自画像を描き、モデルの精神性やセクシュアリティを探求したことで知られます。立体的な歪みなどの従来の美術的表現に反発したような画風が特徴的です。スペイン風邪で29歳という若さで亡くなりました。

現在の値段

約83,821,400円(直近36ヶ月間の平均落札価格)

2020年「Liegendes Mädchen in dunkelblauem Kleid」¥196,833,000 クリスティーズ)44.5 x 31 cm
2021年「Kauernder weiblicher Akt 」¥537,340,700(サザビーズ)31.0 x 55.9 cm
2022年「Frau, das Gesicht verbergend」¥345,462,000(クリスティーズ)48.0 x 31.5 cm

エゴン・シーレの作品は、直近36ヶ月間の平均落札価格数千万円単位という高値で取引されています。紙に鉛筆で描かれたスケッチなども数千万円という価格がついているものが散見され、その価値が高く評価されていることがわかります。その中でもまだ手の届きやすい価格帯になっているのはリトグラフ作品でしょう。
オークション価格エゴン・シーレ

東京都美術館で開催中の「エゴン・シーレ展」

2023年1月26日 (木) から4月9日 (日)まで、東京都美術館にて開催中の展覧会「レオポルド美術館 エゴン・シーレ展 ウィーンが生んだ若き天才」は、シーレの油彩画やドローイングなどの代表作50点が展示される、30年ぶりの大規模な展覧会です。

オーストリア・ウィーンのレオポルド美術館は、19世紀後半から20世紀のオーストリア美術作品約8,000点の所蔵作品を誇ります。特に220点以上のエゴン・シーレ作品を所蔵していることから『エゴン・シーレの殿堂』としてシーレ作品の世界有数のコレクションで知られています。

本展覧会では、シーレの作品の展示に限らず、シーレの生涯を振り返ることができるほか、同時期に活躍したグスタフ・クリムト、オスカー・ココシュカ、リヒャルト・ゲルストルなどの画家たちの作品も合わせて展示され、120点の絵画作品が一挙に鑑賞できるようになっています。

シーレの作品では、「ほおずきの実のある自画像」「装飾的な背景の前に置かれた様式化された花」「モルダウ河畔のクルマウ(小さな街IV)」などの代表作品が展示されています。

「レオポルド美術館 エゴン・シーレ展 ウィーンが生んだ若き天才」(Egon Schiele from the Collection of the Leopold Museum – Young Genius in Vienna 1900)

会期:2023年1月26日 (木) ~ 4月9日 (日)
休室日:月曜日
開室時間:9:30~17:30、金曜日は20:00まで (入室は閉室の30分前まで)
会場:東京都美術館(東京・上野公園)〒110-0007 東京都台東区上野公園8-36

https://www.egonschiele2023.jp/

「エゴン・シーレ展」のグッズ

本展で販売されるグッズでは、「レオポルド美術館 エゴン・シーレ展 ウィーンが生んだ若き天才」図録【特版】は、30年ぶりのエゴン・シーレ展を記念した限定版の図録がおすすめです。

2023年に発行された312ページに及ぶオールカラーの図録で、普及版よりも豪華な装丁の図録(内容は普及版と同じもの)に、シーレの水彩画《闘士》の画像をあしらった化粧箱、素描か水彩画の5点がセットになったもので、300部限定で販売されます。

他には、トートバッグやノート、クリアファイル、アロマキャンドル、Tシャツなど幅広いバリエーションのグッズが販売されているので、展覧会を訪れた際にぜひ記念にチェックしてみましょう。

エゴン・シーレの経歴

エゴン・シーレEgon Schiele:以下、シーレ)は、オーストリア・ハンガリーの首都ウィーン近郊にあるトゥルン・アン・デア・ドナウの北ドイツ出身でルター派教会牧師、官吏、軍人、医者を輩出した中産階級の家系に生まれました。

シーレは、幼い頃から美術担当教員によりすでにその美術的才能を認められていたといいます。父親が帝国鉄道の駅長だったことからか、シーレにとっての最初の好きな画題は電車でした。

12歳の時にクロスターノイブルクのギムナジウムに入学したあとは、シーレの才能を認めた教員のサポートもあり、全く新しい世界に浸り、他の芸術家たちと交流するようになります。

15歳の時に父が梅毒で亡くなったため、シーレは叔父レオポルドに引き取られます。16歳の時にグスタフ・クリムトも通ったことで知られるウィーン工芸学校に入学し、その後はウィーン美術アカデミーへ進学します。

保守的な古典主義を継承するアカデミーに失望したシーレは、授業の代わりにウィーン工芸学校時代の先輩であるグスタフ・クリムトに弟子入りすることになります。クリムトは、シーレが貧しい時代にもモデルを雇うための費用を立て替えるなどのサポートをしていたそうです。

1908年には、クリムトの援助もあり、初の個展を開催します。翌年、アカデミーを退校した後に、アカデミーを離脱した画家仲間たちと「Neukunstgruppe」(ノイクンストグルッペ、新たなる芸術の集い)を設立しました。

また、クリムトに招待されて、ウィーン分離派展に作品を数点出品しました。この展覧会は、エドヴァルド・ムンク、ヤン・トーロップ、フィンセント・ファン・ゴッホのようなフランス印象派の作家たちを多数紹介したもので、シーレは彼らの作品からも大きな影響を受けます。

1911年に、シーレは絵のモデルとなった17歳の少女ヴァリーと、ウィーンで同棲を始め、その後南ボヘミアのチェスキー・クルムロフへ移ります。保守的な田舎で、シーレは街の若い女性たちにヌードモデルの依頼をしたことや、娼婦をモデルとしてアトリエに呼んだことから街を追い出され、ノイレングバハにうつるも、そこでも住民たちから同様の理由で苦情が出され、1912年4月には未成年少女への誘惑・淫行の疑いで逮捕され、投獄されます。

1914年、シーレはウィーン郊外のヒーツィング地区にアトリエを構え、その向かいに住んでいた中産階級のハルムス家の令嬢エーディトと結婚することになります。このときにシーレはヴァリーとまだ愛人関係を続けようとしましたが、シーレの結婚報告にショックを受けたヴァリーは、シーレの元を去り、二人はその後二度と会うことはありませんでした。

また、エーディトの姉であるアデーレもシーレの絵のモデルになっただけでなく、愛人関係にあったとのちにアデーレが語っています。

第一次世界大戦が勃発したとき、24歳だったシーレはオーストリア=ハンガリー帝国軍に召集されましたが、画家として活動していることを知った上層部はシーレを前線勤務に就かせず、戦時中も捕虜収容所の看守をしながらスケッチをしたりと創作活動をわずかながらも続けることができたといいます。

1918年、第一次世界大戦が終わりに近づいていた頃に、クリムトが主催した第49回ウィーン分離派展に50展以上の作品を出展したシーレは、一気に注目を集めます。画家として成功を収め始めたシーレでしたが、その頃妻のエーディトがスペイン風邪にかかり、亡くなってしまいます。その数日後、シーレも同じくスペイン風邪のため亡くなりました。

シーレは28歳という若さで亡くなったため、短い生涯でしたが、その中でも多くの作品を残しました。モデルの精神や肉体を表現したエロティックな肖像画や歪んだ姿をした自画像が最も有名ですが、スキャンダラスで堕落した人生やスペイン風邪による早逝など、その波乱に満ちた人生も注目されるようになり、映画化されています。

エゴン・シーレの代表作品

「黒い壺のある自画像」1911年

シーレは、100点以上の自画像を描きましたが、その多くはヌードを題材としてもので、身体が歪められ、誇張されて表現されているのが特徴です。

痩せこけて骨張った自身の姿が描かれており、他の作品と比べると線が少なく、より多くの色が用いられています。

シーレ自身は他者から見て容姿端麗であり、自分自身を題材として多くの絵を描いたものの、実際はシャイで繊細だったと言われています。

「ほおずきの実のある自画像」1912年

「ほおずきの実のある自画像」は、シーレの最も有名な自画像と言えるでしょう。数多くの展覧会に参加していた22歳の時に描かれた作品で、他の自画像に見られる歪みが、本作では少なく見られます。

絵の中のシーレは、首を傾けて挑発的な眼差しを投げかけているように見えます。青白い肌に血管が浮き出たような赤や青の色使いがされているのが印象的です。

「エーディトの肖像」1915年

「エーディトの肖像」は、シーレが描いた妻エーディトの肖像画で、1915年に完成しました。

絵の中のエーディトの様子は、立ち姿や表情に人間味が欠けているように感じられ、まるで人形のようにも見えます。エーディトが着ているストライプのドレスは、シーレのアトリエにあったカーテンから作られたものだそうです。

エーディトはシーレとの結婚後わずか3年でスペイン風邪のため亡くなってしまうという悲しい運命にあります。その数日後にシーレも同じくしてスペイン風邪で彼女を追うようにこの世を去ってしまいました。

(※エーディトはエディットという名前でも表記されることがあります。)

「横たわる女」1917年

1917年に描かれた「横たわる女」は、シーレが描いたヌード肖像画の1つです。

長い茶色の髪の女性が裸でシーツの上に横たわっている姿が描かれており、美的バランスが取れた構成が見られます。

本作は1918年の春に開催された分離派の展覧会に出展され、展覧会は大成功を収めたそうです。

「古い街Ⅲ、緑の中の街」1917年

肖像画を多く残したシーレですが、ヨーロッパ各地を旅していたことから、中世の小さな町の風景画も描いてました。「古い街Ⅲ、緑の中の街」は1911年に少しの間住んでいた、シーレの母親の故郷であるチェスキー・クルムロフの風景に触発されて描いた作品です。

大胆な輪郭の描き方など、シーレの肖像画に見られる特徴的な表現が、風景画にも見られます。

エゴン・シーレの映画

「エゴン・シーレ/愛欲と陶酔の日々」

「エゴン・シーレ/愛欲と陶酔の日々」は、28年という短く波乱の生涯を送ったウィーン表現主義の画家エゴン・シーレの愛と苦悩を描いた映画です。

シーレがまだ駆け出しの頃にモデル、そして恋人として彼を支え続けた女性、ヴァリーをジェーン・バーキンが演じています。画家として花開く前のシーレには、ヴァリーの献身的なサポートによって徐々に彼女をモデルに多くの作品を描いたり、人脈を増やしていったものの、最終的には世間体のためにヴァリーを裏切り、中産階級の娘と結婚を決意した挙句、都合の良い関係を続けようと持ちかけます。

いわゆるどうしようもないダメ男だったシーレの一生を、ドラマとして描いているため、画家の作品が生まれた背景やそのスキャンダラスな生涯を理解できる映画でしょう。

「エゴン・シーレ 死と乙女」

「エゴン・シーレ 死と乙女」は、2017年に発表されたエゴン・シーレの生涯を描いた映画です。

この映画では、シーレの妹であるゲルティと彼のモデル兼恋人してミューズであったヴァリーの二人との関係を中心として、芸術を探求するシーレの姿を描いています。

映画のタイトルにもなっている「死と乙女」は、シーレの代表作のタイトルとしても知られており、この絵はヴァリとシーレの別れを題材に描かれたそうです。世間体のために他の女性と結婚することを選びヴァリーに去られたシーレが、二人の別れを『真実の愛の死』として美化して描いた作品だと言えるでしょう。

エゴン・シーレはジョジョの元ネタ?!

開催中の「エゴン・シーレ展」を訪れた方を中心としているのか、人気漫画の「ジョジョの奇妙な冒険」の画風が、エゴン・シーレの絵の表現と似ているとネットで話題になっているようです。

「ジョジョ」の作者である荒木飛呂彦氏は、西洋絵画の造詣が深いことでも知られているため、シーレの作品の大胆なポージングなどが『ジョジョ立ち』などにインスピレーションを与えたのかもしれません。

まとめ

ウィーンを代表する表現主義の画家の一人であるエゴン・シーレは、28年という短い生涯の中で、自画像やモデルの肖像画などを多く残しました。

映画を鑑賞することで、シーレの作品とその背後にある彼の波乱に満ちた人生について予習してから、日本で30年ぶりの大規模な展覧会で東京都美術館にて開催中の「レオポルド美術館 エゴン・シーレ展 ウィーンが生んだ若き天才」で、日本ではなかなか見られないシーレの代表作品を鑑賞してみてはいかがでしょうか。

参考

エゴン・シーレ展公式サイト https://www.egonschiele2023.jp/

MUSEY エゴン・シーレ https://www.musey.net/artist/110

Artsy https://www.artsy.net/artist/egon-schiele/auction-results

画像引用元:https://www.artdex.com/art-egon-schiele-angst-frustration-intellectual-hysteria/ https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Egon_Schiele_016.jpg

ABOUT ME
あやね
2018年にアメリカ NYへ移住した、京都生まれの大阪人。日本の伝統工芸が持つ独特で繊細な美しさが好きで、着物や器を集めている。郊外の家に引っ越したことをきっかけに、アート作品やアンティーク家具を取り入れたインテリアコーディネートにも興味を持ち始める。アメリカで日常生活に様々な形でアートを取り入れる人々に出会い触発され、2021年より趣味で陶芸をはじめる。