ラファエロ・サンティの生涯
ラファエロ・サンティ(Raffaello Santi)は、ルネサンス期を代表するイタリアの画家、建築家で、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロとともに、盛期ルネサンスの三大巨匠として知られています。
ラファエロは、1483年に小さな国ながらも美術史上重要な中央イタリアの都市国家であるウルビーノ公国に、公宮廷画家ジョヴァンニ・サンティの息子として生まれました。ラファエロは、幼少期から芸術の才覚を現してしたといい、宮廷画家だった父の仕事や工房の経営も手伝っていたといいます。
残念なことに母親を8歳の時に、父親を11歳の時に亡くした若きラファエロは孤児になり、バルトロメオ父方の叔父が後見人となりました。
その後ウンブリア派の画家ペルジーノの工房に若くして弟子入りしたラファエロは、驚くほどペルジーノの教えを吸収できる才能を持った弟子だったとされています。
徒弟期間を終え、1501年にマスターとして登録された後、独立します。
記録に残っているラファエロの最初期の作品は、チッタ・ディ・カステッロのサン・タゴスティーノ教会の礼拝堂用に描いた「バロンチの祭壇画」などがあります。
この時期からしばらくラファエロはさまざまな場所に移り住む放浪の人生を送っていたといいます。北イタリアの都市やフィレンツェに滞在し、最先端の美術を学びながら徐々に自身の作風を確立していったのだそうです。
ちなみに、ラファエロが当時最も影響を受けていたのは、レオナルド・ダ・ヴィンチだと言われています。実際に短期間レオナルドに弟子入りし、彼が手がけた作品の作品のスケッチなどを行うことで、レオナルドの作品の優れた点を吸収していました。
1508年ごろから、ラファエロはローマ教皇ユリウス2世からの招待を受けてローマへ移住し、残りの生涯をそこで過ごします。
ローマへ移ってすぐにヴァチカンへ向かい、ヴァチカン宮殿のフレスコ壁画制作依頼を受けます。これがのちに「ヴァチカン宮殿のラファエロの間」と呼ばれる部屋の壁画製作の仕事でした。ラファエロの間の「署名の間」に描かれたフレスコ壁画「アテナイの学堂」が特に有名でしょう。
ラファエロはローマ時代、ヴァチカン宮殿のフレスコ壁画の仕事に多くの時間を費やしていましたが、主要なパトロンであったローマ教皇、ユリウス2世とレオ10世からの注文絵画も受けており、肖像画も多く描いていました。
ラファエロは日々忙しく製作活動を行う中で、37歳という若さでこの世を去ってしまいます。死因は、過労や心労によるものだと言われているそうです。才能のある若い芸術家を失い、レオ10世は非常に悲しんだそうで、翌年に亡くなっています。
こうして、ラファエロの死から間も無く、ローマ・ルネサンスの時代は終焉に向かっていったと言われています。
ラファエロ・サンティの代表作品
「モンドの磔刑図」1502〜1503年
「モンドの磔刑図」は、サン・ドメニコ教会にある祭壇画で、磔にされたイエス・キリストと6人の人物が描かれています。
死に至りながらも、イエス・キリストは穏やかな表情を浮かべていることが見て取れます。イエス・キリストの周りに描かれているのは、聖杯の中のイエス・キリストの血を持つ2人の天使とマグダラのマリアが、福音書記者のヨハネ、聖母マリアと聖ジェロームです。
イエス・キリストの痛み、苦しみは磔られた手足にしか描かれておらず、このような悲しいシーンをも美しく描かれているのが印象的です。
イギリス・ロンドンにあるナショナル・ギャラリーに所蔵されています。
「ベルヴェデーレの聖母」1506年
「ベルヴェデーレの聖母」は、幼な子のイエス・キリストと洗礼者聖ヨハネ、そして赤い衣服に青の衣を纏った聖母マリアを描いた作品です。
聖母マリアの慈愛に満ちた穏やかで優しい表情や人物の背後に見えるのどかな風景が静寂を感じさせ、心が落ち着きます。
背景の地平線が作る平行線、三人の人物が作る三角形という構図が、この作品に安定感を出す一因となっているのがわかります。
「アテナイの学堂」1509〜1510年
ヴァチカン宮殿にある「ラファエロの間」には、「署名の間」「ヘリオドロスの間」「火災の間」「コンスタンティヌスの間」の4つの部屋があり、「アテナイの学堂」は「署名の間」に描かれたものです。
「アテナイの学堂」は、哲学を表した壁画で、「署名の間」の他の壁のには、神学、法学、詩学が描かれています。ヴァチカン宮殿の壁画は、ローマ教皇ユリウス2世からヴァチカンに招かれたラファエロの重要な作品として知られています。
当時、システィーナ礼拝堂の天井画をミケランジェロが製作していたことは有名ですが、ラファエロはミケランジェロの影響も受けていると言われています。
一点透視図法を用いた遠近法が見事で臨場感があります。
「システィーナの聖母」 1512〜1514年
ラファエロが教皇ユリウス二世の依頼によって、教皇ユリウス二世の故郷であったピアツェンツアのサン・シストの教会の祭壇画として1512年に制作を始めた作品が「システィーナの聖母」です。「サン・シストの聖母」とも呼ばれています。
聖母マリア像をテーマに描いた作品の1つで、幼子イエス・キリストを抱く聖母マリアを囲うように立つ聖シクストゥスと聖バルバラ、そして下部には二人の天使が描かれています。
この二人の天使は、様々な装飾品や衣服などにコピーして使用されてきたことから、多くの人が既視感を感じるかもしれません。
「システィーナの聖母」は、1754年にドイツ・ドレスデンに移され、第二次世界大戦でのドレスデンの大空襲の被害を逃れたものの、赤軍によってスイスの坑道に保管されていたところを発見されてとりあげられ、10年間モスクワに持ち出されていましたが、現在はドレスデンのアルテ・マイスター絵画ギャラリーに収蔵されています。
「小椅子の聖母」1514年
1514年に描かれた「小椅子の聖母」は、聖母像を描き続けたことで有名なラファエロが31歳の時に描いた聖母子をテーマとした作品の集大成とも言えるでしょう。
円形画(トンド)のなかに愛らしい聖母マリアと幼子イエス・キリスト、聖ヨハネが描かれており、聖母の優しい表情や色彩の豊さが印象的です。
当時、『円形は無限の宇宙を表す』という思想のもとで円形絵画が流行していた流れで、「小椅子の聖母」も円形に描かれたと考えられています。
「小椅子の聖母」はラファエロの死後、トスカーナ大公によって買い取られて16世紀前半までメディチ家に所有されていましたが、1800年ごろにナポレオンの戦利品としてフランス・パリに渡ることとなります。
その後、1912年にイタリア・フィレンツェのピッティ美術館に戻り、現在も収蔵されています。
ラファエロの有名作品を鑑賞できる美術館
- ヴァチカン美術館(ヴァチカン市国):「キリストの変容」「聖体の論議」「アテナイの学堂」「ペテロの解放」
- ウィーン美術史美術館(オーストリア):「ベルヴェデーレの聖母」
- アルテ・マイスター絵画ギャラリー(ドイツ):「システィーナの聖母」
- ナショナル・ギャラリー(イギリス):「モンドの磔刑図」
- ワシントン・ナショナル・ギャラリー:(アメリカ)「アルバの聖母」
- ウフィツィ美術館(イタリア):「アニョロ・ドーニとマッダレーナ・ストロッツィの肖像」「ヒワの聖母」
- ピッティ宮殿パラティーナ美術館(イタリア):「大公の聖母」「自画像」「ユリウス2世の肖像」「小椅子の聖母」「ヴェールの貴婦人」
- ブレラ美術館(イタリア):「バラの聖母」
- プラド美術館(スペイン):「仔羊のいる聖家族」
- ルーブル美術館(フランス):「美しき女庭師」「バルダッサーレ・カスティリオーネの肖像画」「友人といる自画像」
まとめ
レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロと並ぶルネサンス期のイタリアで活躍した天才的な芸術家であるラファエロは、37歳の若さで亡くなってしまいましたが、数多くの素晴らしい遺作を残しています。
中でもラファエロが多く描いた聖母像は、彼の代表的なモチーフであり、「システィーナの聖母」や「小椅子の聖母」は、ヨーロッパの有名美術館で観ることができるのでぜひ鑑賞したい作品です。
参考
Wikipedia「ラファエロ・サンティ」
美術ファン「ラファエロ・サンティの生涯と代表作・絵画作品解説」https://bijutsufan.com/highrenaissance/raffaello/