【ポール・ゴーギャン】ゴッホと共同生活で知られる後期印象派の代表的な画家の生涯や代表作、収蔵美術館など

Paul Gauguin
アーティスト紹介
ポール・ゴーギャン

DATA

ニックネーム
ポスト印象派を牽引した画家
作者について
ポール・ゴーギャンは、後期印象派を代表する画家です。ゴッホと共同生活を行なったというエピソードが特によく知られています。晩年はタヒチやマルキーズ諸島での絵画制作など、プリミティヴィズム(原始主義)の先駆的な活動をおこなったことでも有名です。

現在の値段

約295,440,000円(直近36ヶ月の平均落札価格)

2021年「Paysage de Bretagne」¥24,786,972(Bonhams)30.4 x 21.7 cm
2022年「La Montagne Sainte-Marguerite vue des environs du presbytère」¥349,599,765(クリスティーズ)60.2 x 73.5 cm
2023年「Nature morte avec pivoines de chine et mandoline」¥1,543,038,804(サザビーズ)61.6 x 50.8 cm

ポール・ゴーギャンの作品は頻繁に大手オークションハウスにて出品されています。1998年以降のオークションでの最高記録は、2022年にクリスティーズ・ニューヨークで落札された「母性II」の105,730,000米ドル(約105,730,000円)です。
ポール・ゴーギャンのオークション落札価格

ポール・ゴーギャンの生涯

ポール・ゴーギャン
引用:https://www.pinterest.com/pin/483714816197067872/

ポール・ゴーギャン(ウジェーヌ・アンリ・ポール・ゴーギャン|フランス語表記:Eugène Henri Paul Gauguin)は、1848年フランス・パリに生まれました。日本では、フランス語の発音に近い『ゴーガン』と呼ばれることも多いようです。

ゴーギャンは、7歳までを母の親族がいるペルーで過ごし、その後フランスに戻り、オルレアンでの生活を始め、地元の学校、のちにカトリック系寄宿学校に3年間通います。

その後、商船の水先人見習いとして、世界中の海を回るようになります。1868年には、兵役でフランス海軍に入隊して、2年間勤めました。

1871年にパリに戻ったゴーギャンは、母の交際相手であったギュスターヴ・アローザの勧めにより、パリ証券取引所で株式仲買人として働くようになり、その後も実業家として成功をおさめます。

1873年に結婚し、5人の子供を授かりました。またこの頃から、余暇に絵を描くようになったゴーギャンは、当時印象派の画家たちで美術界が盛り上がっていたパリにて、画廊を訪れたり、新興アーティストの作品を購入したりしていました。1876年には、ゴーギャンの作品の一つがサロンで入選します。

1882年、パリの株式市場が大暴落したことで、画商との取引もストップし、ゴーギャンの収入は激減してしまいます。ゴーギャンはこの頃から、徐々に絵画を本業とすることを考えるようになったといいます。

1884年、生活の立て直すためゴーギャンと一家は生活費の安いルーアンに移りましたが、うまくいかず、妻の出身であるデンマークに妻について移り住むことになります。

コペンハーゲンで働こうとしてゴーギャンですが、言語的な障壁から、うまくいかず、フランス語講師として働いた妻の収入で家計を支えるという状況が続きました。そして、1885年に家族をコペンハーゲンに残し、6歳の息子クローヴィスを連れてパリに移ります。

パリに戻ってから、画家として生計を立てることを目指したものの、現実は厳しく、雑多な仕事で食いつなぐこととなります。

1886年の夏には、生活費の安いブルターニュ地方のポン=タヴァンの画家コミュニティで暮らし、そこにいた若い美術学生たちとの交流に多くのインスピレーションを受けたようです。

その後、ゴーギャンの作品には平坦な色面としっかりした輪郭線を特徴とする描き方であるクロワゾニスムが多く見られるようになります。また、フォークアートや日本の浮世絵の影響も受けたと言われています。

クロワゾニスム(またはクロワゾニズム、クロワソニスム、クロワソニズム、Cloisonnism)とは、暗い輪郭線によって分けられたくっきりしたフォルムで描かれた、ポスト印象派の様式のこと。 評論家のエドゥアール・デュジャルダン(Édouard Dujardin)の造語である。

Wikipedia

ゴーギャンは1887年の6月から11月までの半年間、シャルル・ラヴァルと一緒にマルティニークのサン・ピエールに滞在します。この間に12点前後の作品を制作しました。

パリに戻った後、マルティニークで制作した作品が画家のフィンセント・ファン・ゴッホの目に入り、これをきっかけに二人は親交を深めることになります。

1888年から南フランス、アルルのゴッホの「黄色い家」にて共同生活を始めましたが、次第に芸術感の不一致から関係が悪化し、ゴーギャンは9週間後にはゴッホの家を去ることになります。

ゴッホは写実性を重視した一方で、ゴーギャンは想像を通して物質を描くことを重視していました。お互いに個性が強かったこともあってか、芸術感についての不一致が、結果的に二人の仲を壊してしまいます。

1891年4月、ゴーギャンは『ヨーロッパ文明と人工的・因習的な何もかもからの脱出』を目的に、タヒチに向かいます。タヒチでは、アトリエを構え、作品を生活しています。当時は暖かい気候の南フランスで創作活動をしているの画家たちが多く、その中で他と差をつけるためにもタヒチに行くことにしたと言われています。

「死霊が見ている」ゴーギャン
引用:wikipedia

1893年8月にフランスに戻ってからも、ゴーギャンはタヒチをテーマにした作品の制作を続けました。タヒチで10代の女性を『妻』としたり、フランスに戻ってからもインド系とマレー系のハーフだという10代の少女を囲って、ミューズとしたと言われています。その後ゴーギャンは本妻とは離婚します。

美術界からの批判を受け、パリの美術界で孤立したゴーギャンは1895年6月28日から再びタヒチに向かいます。

タヒチでは、彫刻作品を制作したり、性的イメージをはらんだヌードの絵を描くようになります。

タヒチ滞在中には、ゴーギャンはたびたび健康状態を害したほか、身の丈に合わない借入によって借金も増えていきます。

1901年から、かねてから訪れたいと思っていたというマルキーズ諸島に移ります。

ゴーギャンは、司教の機嫌をとってカトリック布教所から買い取った土地に2階建ての建物を建てましたが、「メゾン・デュ・ジュイール(快楽の館)」と名づけて壁に集めたポルノ写真を飾りました。それを見るために地元住民が駆けつけたことなどから、司教との関係は悪化します。

現地の14歳の少女ヴァエホを妻としたものの、病気がちであったゴーギャンは彼女から看護を受けていたと言います。

1902年には、妊娠中の妻ヴァエホはゴーギャンの元を去り、この頃にはさらに病状が悪化していたゴーギャンはほとんど絵の制作ができなくなったようです。

ゴーギャンは、健康状態の悪化やモルフィネによる治療などもあってか、1903年5月8日に急死します。

ポール・ゴーギャンの代表作

「ひまわりを描くゴッホ」1888年

「ひまわりを描くゴッホ」はタイトルの通り、ゴーギャンが南フランスのアルルで2ヶ月間共同生活をしたフィンセント・ファン・ゴッホをモデルにした作品です。

ゴッホの代表作であるひまわりを描いている作品で、クロワゾニスムの手法で描かれており、実物ではなく、イメージの中で感じた景色を表現しているとされます。

この作品は、のちのゴッホの『耳切り事件』につながったという説もあるようです。

「ハムのある静物」1889年

「ハムのある静物」は、第三次ブルターニュ滞在の頃の作品で、ゴーギャンの静物画の中で最も有名な作品だと言えるでしょう。

ポール・セザンヌの影響を受けていると言われています。不安定なイメージが感じられる机の描き方から、当時のゴーギャンの心境が感じられると評価されています。

「タヒチの女(浜辺にて)」1891年

「タヒチの女(浜辺にて)」ゴーギャン
引用:旅と美術館

タヒチ滞在中に描いた作品の一つである「タヒチの女(浜辺にて)」は、簡略化された背景に、2人の女性が画面いっぱいになるような構図で描かれています。

タヒチの伝統的な衣装を着た女性たちはそれぞれが浜辺でリラックスしているような、そして何か手作業をしているかのような様子が描かれています。

本作品は、フランスのオルセー美術館に収蔵されています。

「我々はどこから来たのか、我々は何者なのか、我々はどこへ行くのか」1897年

「我々はどこから来たのか、我々は何者なのか、我々はどこへ行くのか」
引用:Wikipedia

「我々はどこから来たのか、我々は何者なのか、我々はどこへ行くのか」は、ゴーギャンの最晩年の作品です。

健康状態が悪化したり、娘が亡くなったり、借金が増えたりと、老衰と共に鬱状態にあったであろうゴーギャンが49歳の時に描かれた本作品は、右下の赤ん坊や左下の老女などのモチーフから、右から左へ人生のステージが進む様子が描かれていることがわかりますが、不明な部分も多いため解釈はさまざまなようです。

ゴーギャン自身も、自身の最高傑作であることを知人への手紙で言及しています。

「白い馬」1898年

「白い馬」ゴーギャン
引用:http://www.eco-one.jp/view/item/000000000998

ゴーギャンの最晩年の作品である「白い馬」は、薬剤師であった知人の依頼に応じて制作されたそうです。

当時健康状態が悪化していたゴーギャンの様子が想像できるような、不安定な精神面が想像できるような仕上がりに、作品の中の『白い馬』の緑色の弱々しい姿を見た依頼主は、受け取りを拒否したといいます。

ポール・ゴーギャンの作品を見られる美術館

ポール・ゴーギャンの作品が収蔵される世界各地の美術館と、作品例です。

  • オルブライト=ノックス美術館:「黄色いキリスト」
  • ノートン美術館:ゲッセマネの園の苦悩
  • スコットランド国立美術館:「説教の後の幻影 (ヤコブと天使の格闘)」「三人のタヒチ人」
  • グルノーブル美術館:「マドレーヌ・ベルナールの肖像」
  • オルセー美術館:「黄色いキリストのある自画像」「マンドリンと花」「ポン・タヴェンの洗濯女たち」「レ・ザリスカン、アルル」「シューフネッケルの一家」「牛のいる海景(深い淵の上で)」「美しきアンジュール」「黄色い積みわら(黄金の収穫)」「扇のある静物」「アレアレア(愉び)」
  • ボストン美術館:「我々はどこから来たのか、我々は何か、我々はどこへ行くのか」「女性と白馬」「オスニー村の入り口」「二人のブルターニュのいる風景」
  • フィリップス・コレクション:「ハム」
  • ボルティモア美術館:「マンゴーを持つ女」
  • ニューヨーク近代美術館:「洗濯する女たち」「静物と3匹の子犬」「アレオイの種」「月と大地」
  • 国立西洋美術館:「水浴の女たち」「ブルターニュ風景」「海辺に立つブルターニュの少女たち」「画家スレヴィンスキーの肖像」
  • アーティゾン美術館:「若い女の顔」「馬の頭部のある静物」「ポン=タヴェン付近の風景」「乾草」
  • など

ポール・ゴーギャンの名言

ポール・ゴーギャンはさまざまな名言を残したことでも知られます。以下はその一部の例です。

ゴーギャンの芸術感や人生についても、以下の発言から感じ取ることができます。

  • 『我々はどこから来たのか?我々は何者なのか?我々はどこへ行くのか?』
  • 『自然をコピーしてはいけない。芸術は抽象的なものです。むしろ、自然の前で夢を見て、もっと創造的に考えることで、あなたの芸術が発揮されます。』
  • 『見るために、私は目を閉じる。』
  • 『芸術は、盗作であるか革命であるか、そのいずれかだ。』
  • 『文明とは、麻痺状態のことだ。』
  • 『木が青く見えるなら、青くすればいい。』
  • 『愚かさとは何か、自分で実験してみないとわからない。』

まとめ

フランスの画家,彫刻家であるポール・ゴーギャンは、後期印象派を代表する一人です。

『写実的に描くのではなく、想像を介して描く』ことを重視していたゴーギャンの作品の多くは、作品を通して何らかのメッセージを伝えていることがわかります。

参考

Wikipedia ポール・ゴーギャン

気になるアート.com https://kininaruart.com/artist/world/gauguin.html

画像引用元:https://www.thoughtco.com/paul-gauguin-timeline-183475 https://artuk.org/discover/stories/the-tahitian-woman-behind-paul-gauguins-paintings

ABOUT ME
あやね
2018年にアメリカ NYへ移住した、京都生まれの大阪人。日本の伝統工芸が持つ独特で繊細な美しさが好きで、着物や器を集めている。郊外の家に引っ越したことをきっかけに、アート作品やアンティーク家具を取り入れたインテリアコーディネートにも興味を持ち始める。アメリカで日常生活に様々な形でアートを取り入れる人々に出会い触発され、2021年より趣味で陶芸をはじめる。