平山郁夫の経歴
平和をテーマした作品やシルクロード、仏教などをモチーフにした連作絵画で知られる日本画家・平山郁夫(以下、平山)は、1930年6月15日に広島県の豊田郡瀬戸田(現在の尾道市)に生まれました。
平山は15歳のときに、広島に投下された原子爆弾によって被爆し、その後しばらく心身共に傷を負ったそうです。この自身の被爆体験から、平和への思いを強く持つようになり、作品にもそれが反映されています。
東京芸術学校(現在の東京藝術大学)日本画科予科を1952年に卒業し、その後は前田青邨の門下生となり助手として働きます。
仏教や考古学に興味を持っていた平山は、1963年に東京芸術大学の教授に就任してからも、研究のためにトルコに4ヶ月滞在するなど、海外の美術・文化との関わりも深く持っていました。
『東京オリンピックの聖火をシルクロード経由で運んでは?』と書いた新聞記事を読んだ平山は、この記事から得たインスピレーションを元に、シルクロードの人々や風景を、連作として描くようになったそうです。
平山は、この連作の制作のために実際に自らシルクロード、中国、中近東、中央アジア各地に160回ほど足を運んだといいます。
旅の途中に描いたスケッチブックは200冊近くにおよび、4,000点以上の膨大な量のスケッチから、数々の作品が生み出されたようです。
平山は、日本画家としての創作活動だけに留まらず、国際的な交流の場でもリーダーシップを発揮しました。
日中文化交流にて、数々の要人たちとの会見に参加したり、各国で開催した個展に出席したり、私費で海外芸術家らを招聘(しょうへい)したり、平山奨学金を創設したりと、日本と各国との多様な文化交流を推進してきたそうです。
世界遺産担当ユネスコ親善大使としても活躍し、北朝鮮の高句麗古墳の世界遺産登録推進やアフガニスタン・バーミヤンの大石仏の保護(現在は破壊されてしまった)などの活動を牽引した存在でもありました。
原爆の影響を受け、世界を股にかけて平和を目指して活躍した経験から、平山は日本画家として日本の近代絵画に西洋の概念を取り入れたり、国際的な交流や文化の保護などに貢献したりしました。
平山は2009年12月2日に、79歳で脳梗塞のためこの世を去りました。
現在でも、広島県尾道市にある平山郁夫美術館や山梨県北杜市にあるシルクロード美術館には多くの人が訪れ、平山の生き様や作品に触れています。
平山郁夫の代表作品
「仏教伝来」1959年
「仏教伝来」は、広島で被爆の後遺症に苦しんでいた平山が死の危険をも目前にして、平和への祈りを注ぎ込んだ作品を描きたいという想いで製作されたそうです。
この作品は、中国・唐朝の名僧であった玄奘三蔵(げんじょう・さんぞう)法師がインドへの求法の命がけの旅をする姿を題材に表現したものです。
現在は平山郁夫美術館のロビーに飾られています。
「群畜穹閭(ぐんちくきゅうりょ)」1973年
「群畜穹閭(ぐんちくきゅうりょ)」中東の物資の集散地として国際的に知られるシリアのアレッポの家畜市場の様子を描いたものです。
各地から集まってきた人々は羊、山羊、牛などを連れており、多い時には一万頭以上が集まったというその様子からは、現場の人や動物の体臭、騒音や熱気を感じます。
「皓月ブルーモスク(イスタンブール)」1989年
この作品で描かれるモスクのある国イスタンブールは、アジア大陸とヨーロッパ大陸の接点に位置し、シルクロード文明の十字路となっていました。
月の明かりに映えるブルーモスクが美しく印象的です。
「薬師寺の夕べ」1997年
1949年に学校の授業の一環として初めて奈良を訪れた平山は、古代の美しさが生き続けている奈良の地を見て感動し、薬師寺を題材にこの作品を描いたといいます。
この作品の他にも、平山は日本の歴史文化遺産などを中心とした題材を1960年代ごろから多く描きました。
「シルクロードキャラバン 西・月」2005年
平山郁夫の晩年の作品である「シルクロードキャラバン 西・月」は、シルクロードの砂漠を往復するラクダの隊商を描いたシリーズの1つで、平山が生涯をかけて描き続けてきたシルクロード絵画連作の集大成とも呼べるでしょう。
シルクロードを描いたシリーズでは、夜空や夕焼けをイメージさせる群青色とオレンジを基調とした色彩が印象的で、夜と朝、月と太陽、東と西など同じテーマの中でも様々なイメージの対比が含まれており、長く続くシルクロードを東から西へと進んでいく様子を見ることができます。
平山郁夫の作品が収蔵されている美術館
平山郁夫シルクロード美術館
山梨県北杜市にある平山郁夫シルクロード美術館は、シルクロードの文化・歴史の顕彰に努めた日本画家・平山郁夫の作品とシルクロードの文化や歴史に関わる美術品などの収集・展示・研究・講演会等の事業を行っています。
平山とその妻が40年近くに渡り収集してきたシルクロードの美術品約9,000点を用いた企画展を毎年数回開催しているそうです。
1999年7月に「八ヶ岳シルクロードミュージアム」として開館し、2004年4月に現在と同じ「平山郁夫シルクロード美術館」に改名されました。
本館には、6つの展示室やミュージアム・ショップ、カフェのほか、屋上にはウッドデッキのある広場などもあり、平山の作品を鑑賞するだけでなくゆったりと楽しむことができる施設となっています。
平山郁夫美術館
平山の故郷である広島県尾道市にある平山郁夫美術館は、平山の幼少時代からの作品や有名な作品、膨大な量のスケッチなどの貴重な資料に及ぶまで様々な平山の偉業を紹介しています。
建築家・今里隆により設計された80メートルを超える日本瓦葺切妻屋根の平屋建の建物で、鉄筋コンクリート造でありながらも、木造の雰囲気が出るように工夫されています。
三つの展示室に加え、日本画の世界や画伯の作品を映像で紹介するハイビジョン室もあり、1日10本以上の番組を放送しています。
「求法高僧東帰図」や「瀬戸田曼荼羅」などの有名な作品も収蔵されています。
平山郁夫の妻は日本画家、娘は詩人!
平山の妻・美智子は東京美術学校(現在の東京藝術大学)日本画科を首席で卒業したほど優秀な画家でしたが、結婚を機に活動をやめ、夫である平山を支え続けてきました。
美智子は夫の死後、遺言と題した生前の雑誌記事に記されていた「自分が死んだ後は、また美智子に絵を描いて欲しい」という言葉を受け、製作を再び行うようになります。
また、平山の長女・弥生は詩人として知られています。
2012年に発売された絵本作品「いちりんの花」は、東日本大震災が起こった後に弥生が詠んだ詩に美智子の版画が並ぶ、親子での共同作品です。
まとめ
広島での被曝を経験したことから、平和への願いを強く持ち、生涯芸術活動や慈善活動など様々な形を通じて、国際的な平和や文化・歴史の保護に携わった平山郁夫氏。
その素晴らしい画力や、美しい色彩と絵画の題材の豊富さから、彼の人生がどれほど多様で豊かなものだったか想像することができます。
一貫した強い意志やメッセージを貫き、手段を変えて世の中に発信し続ける姿勢こそ、真の芸術家であると感じました。
参考
平山郁夫美術館「平山郁夫について」https://hirayama-museum.or.jp/hirayama.html
発光堂「「シルクロード」の作品で有名な平山郁夫。代表作やその一生を解説」https://www.hakkoudo.com/weblog/2020/12/23/1209/
平山郁夫シルクロード美術館 https://www.silkroad-museum.jp/
平山はリトグラフやシルクスクリーンなどの版画も多く製作しました。日本画作品に比べると価格はかなり下がるが数十万円単位が相場になっており、中には100万円を超えるものもあります。